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    大空澄人

    Author:大空澄人
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    前進と後退

    2017.08.13 06:25|真理を求めて
    くれ

    人間は常に前進と後退を繰り返す。わかったと思っていたら再びわからない状態に戻ってしまう。しつこいくらいこれを繰り返す。この状態は人間がこの世では霊と肉体という二重構造になっている事に起因する。霊としての自分はわかっているのに肉体としての自分がすぐに引き摺り下ろそうとする。一日のうちにも行ったり来たりしている。

    やがては肉体を捨てて霊だけになってしまえばこのややこしい構図から解放されてすっきりする時が来るであろう。この世で人生を過ごすには肉体という乗り物が必要だが、それは様々な悩みを引き起こす。誰にも思い当たることがあるはずである。

    霊としての自分が本来の姿なのであるが人々はそれを知らず、また知ろうとせず、無知のままこの世の人生を過ごしている。そして肉体の重荷から解放された人をいたずらに嘆き悲しんでいる。

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    霊界の意志

    2017.03.04 10:05|真理を求めて
    IMG_0006.jpg  

    夕方の犬の散歩に城山に出かけてみた。国民宿舎から見る夕日は絶品であり駐車場にはよくカメラを構えてシャッターチャンスを待っている人を見かける。城山の遊歩道の傍に浜松市から送られた舘山寺桜が植えられている。二十四の瞳の映画監督である木下恵介氏は浜松市の出身であり彼の生誕百年を記念して小豆島に送られたものである。

    景色を眺め咲き始めた桜を見ながら道を進むと昔から花見で知られた場所に出る。私が子供の頃から桜が沢山植えられていて夜桜見物に来たことを思い出す。そこは前回の記事で映画のロケが行われた場所として取り上げたところである。

    その場所でちょっと瞑想してみる。前回に高峰さんからのテレパシーを感じた場所なので今回も何かあるかもしれないと思ったのである。するといつもの額や手のひらの痺れ感(霊的エネルギーは痺れとして感じる)とともに脳裏のスクリーンに現れたのは先ほどの木下恵介監督の姿であった。そして直ちにメッセージが伝わって来た。以下のような口調に感じ取れたが高峰さんや壺井さんとはかなり違う。

    舘山寺桜 
                           舘山寺桜

    「二十四の瞳には霊界の意志が込められているんだよ。壺井さんの小説は実際は霊界の後押しで書かされたようなものなんだ。私は監督としてあの映画を監修し、役者は役者として自分たちの仕事をした。皆がそれぞれの役割を果たした結果、あの映画が出来たけど、それらの背後には霊界の力が働いていたというわけ。事実上の監修者は霊界だったということだけど、そっちの人は気が付かなかっただろうね。
    当時私はそういうことには全く気が付かなかったけど、こちらに来てみたらそれがわかった。二十四の瞳は戦争の悲惨さを訴え、二度と人間が戦争をしないようにとの霊界の願いが込められた映画なんだよ。一般に不朽の名作などと呼ばれているものは例外なく霊界の力が働いているんだ」。

    そして
    「映画監督なんて自分の考えを役者さんに押し付けるんだから独裁者なんだよね。私も監督時代はさんざん無理を言ってきたと思うよ」。

    今回は木下恵介監督登場となった。彼の言葉は今回のストーリーを総括するものであり霊界通信の目的と全容が露わになったような気がする。霊界側の意図を感じさせるものがある。それは最初に雛人形を見に行ったらある人に「こちらにも展示されていますよ」と言われて壺井栄文学館に入った時から始まったようであるがそれが無かったら文学館には入っていないだろう。そこから次々に扉が開かれていったようである。

    IMG_0005.jpg

    その二日後再び犬の散歩にその場所を訪れたがこの時は最初から何かあると感じていた。歩いていると次のメッセージが入ってきたのである。私は歩きながら受けることが多いがリラックスして力みが抜けているからだろう。それは高峰秀子さんであった。

    「私たちは地上の人生で思い入れのあった場所には時々戻ってきて当時を懐かしむことがあります。ここ城山は私にとって思い出の場所なのです。当時に比べてかなり変わりましたが以前の面影が残っています。私たちを思い出してくれる人がいるのはとても嬉しい事です。そこに愛を感じるからです。それから木下監督は気配りの出来る人でしたよ。私たちを色々と気遣ってくださいました。それからあなたはあまり体調がすぐれないようですが余生を楽しんで生きてください」。

    二十四の瞳には霊界の願いが反映されているという事は私もこれまで考えた事はなかった。殆どの人は壺井栄さん自身が反戦思想家だからその小説を書いたと思っている事だろう。壺井栄さんの反戦の思想が霊界側に伝わり大きな後押しが得られたからあの小説が出版されて世に知られるようになり、そのわずか2年後に映画化され一世を風靡することになったのだろう。あの映画を見て涙した人も多かったと思う。それは霊界の力が働いた結果であろう。

    二十四の瞳映画村 

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    思念は生き物

    2017.02.28 09:43|真理を求めて
    一反木綿

    あちらからのメッセージはテレパシーで飛んでくるのでそれを受信できる人間は少数かもしれない。守護霊からは頻繁に指導の為のテレパシーを受けている筈だが殆どの人は気が付かない。反面テレパシーの送信は誰でもが出来ていて自分の出した思念は地上界、霊界の隔てなしに飛んで行き誰かがそれをキャッチしているのである。思念による意志交換は物質の影響を受けないので自由自在である。時間の制約も受けない。

     

    私たちが他の誰かに対し辛抱強く思念を送り続ければ相手は顕在意識で気付いていなくても潜在意識に蓄積され何らかの形で出てくる可能性があるのではないだろうか。守護霊がテレパシー(思念の照射)によって付いている人間を導こうとしていることを考えると理解しやすい。

     

    それには回路が存在することが必要になるが今回のケースでは私の知らない間に回路が出来ていたということだろう。高峰さんの顔が浮かんできたけど私は高峰秀子さんという人をこれまでに映画や写真で見ていてそれは潜在意識に記憶されていたからすぐに誰かわかったのであり、全く知らない人の場合はわかりにくいと思う。しかし何らかのエネルギーは感知しているだろう。

     

    犬の散歩コースに墓地があり犬の散歩の時にそこの道を歩くと必ず胸が重苦しくなりしばらく続く。何回通っても必ずそういう状態になるがつい忘れて通る事があり、ああまたやってしまったと思う。誰か地縛霊がいることは間違いないと思うがイメージは浮かんでこないので相手は知らない者なのだろう。相手にしないと離れていくが私のオーラが目立つから近づいてくるのかもしれない。長い間さ迷っているようであるが私は相手にしないことにしている。その重い感触が気味悪いが救済をしたほうがいいのかもしれない。

     

    前に私が歯科医をしていた時に朝の瞑想の時にある人の顔が浮かんできたことがあった。仕事場に赴くとその人が治療に来ていてなるほどと思ったことを思い出す。その人の歯医者に行かなければという思念がテレパシーで私のところに届いていたということになる。私はその人を良く知っていたのですぐにイメージが浮かんで来たのであろう。

     

    とにかく思念は生き物であり我々が考える以上に身の回りを無数の思念が飛び交っていると考えるべきであろう。遠隔ヒーリングの場合もヒーラーの思念を回路としてエネルギーの伝搬が行われる。ヒーラーが受ける人に意識を集中したら距離に関係なく思念の回路が出来るというわけである。受ける側が知らなくてもヒーリングのエネルギーは到達する。

     

    近年、イスラム過激派や極右など過激な思想に染まる人間が増えているのもインターネットを通じて感化されていることが取り上げられているが、それ以前に誰かが(顕幽の別なく)意図的に思念を流す事によって知らない間に親和性を持つ者の潜在意識にその思想が蓄積されているということも考えられる。思念はエネルギーを持っているからであり、強い思念を照射すれば必ず目に見えないところで何らかの反応が起きていると思う。

     

    シルバーバーチの霊訓に「一人一人の人間の思想には自分オリジナルなものは殆ど無く自分の思想と思っているものも実際は外部から入ってきたものである。人間は思念の受信機であり送信機である」という一節があるがその通りであろう。その中でも守護霊の思想が最も反映されているのだろう

     

    高級霊の通信によると地上の生物創造の任務に当たっている高級霊は強い思念の照射によって地球上の生物を創造するという。日本神話には素戔嗚の尊など創造の神の話が出てくるが、まんざら作り話ではないということになる。とにかく思念は強い力を持っていて死後の世界ではそれを使って生活するようになる。集中力や意志の力を地上生活中に十分に養っておくことが大切だろう。

     

    23日に犬を連れて(どこでも愛犬がお供する)城山という桜の名所に行ってみた。二十四の瞳のロケが行われた場所である。そこには高峰さんと生徒たちが電車ごっこをしているシーンの石碑が置かれている。その場所で瞑想してみると高峰さんからのテレパシーを感じ取ることが出来た。その人が実際にその場所で活躍した場所はその人のエネルギーが残っているので通じやすい。


    nijyuusi.jpg 
     二十四の瞳電車ごっこのシーン


    高峰さんより

    「その頃は私の人生の中で夢中で駆け抜けた時代でした。二十四の瞳は生涯を通して最も思い出に残る映画でした」。

     

    上記のメッセージからわかるように要点だけが伝わることになる。あちらからのメッセージは地上の者同士の会話のようにはならない。理由は一つのイメージがエネルギーとしてある人物に投射された場合、それは言葉ではない。その内容が受信した者によって自動翻訳された形で出てくるので流暢さを欠くことになる。今のところ翻訳者が持つ霊的エネルギーが翻訳の原動力ではないかと感じている。

     

    始めまして私は何々です。突然お電話を差し上げて云々などという表現は出てこないのである。文章として表すとぎこちない感じになるのは仕方がない。また細かい事は伝えようにも伝えられないということになる。伝えたいことの核心だけということになる。また翻訳者の思想も多少は紛れ込んでくるので100パーセント伝えるなどということは不可能なことである。またあちらも地上への意志の伝え方を練習する必要があるようである。全く関心がなければそういう気も起きないだろうし、伝え方など知らないということになる。妻の父は生前技術関係の仕事をしていてそういう事に関心が強かったようで通信の仕方は上手なようである。


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    重いもの

    2017.02.14 09:48|真理を求めて
    地獄界  


    自分の中に何か重苦しい塊のようなものがあると感じることはないだろうか?理由もなく常に何か重いものが存在しているように感じる。祈りや瞑想に入ると次第にそれが消えていき爽やかさに満たされる。

     

    重く感じるもの、それは地上世界の波動である。それが肉体を通して入ってくる。肉体が活動を停止すればそのエネルギーは弱まり清浄な気分になる。人間は肉体を通じて地上世界とつながっているので地上世界の重さや暗さが肉体を通して伝わって来る。つまり重く感じるものとは肉体を通して感じる地上世界のエネルギーなのであろう。

     

    朝、テレビやインターネットを付けた途端に地上世界の重苦しいものがこれでもかというくらい入ってくる。何という事だろうと暗い気持ちにさせられるが祈りを始めるとそういうものはどこかに行っている。自分が祈りや瞑想によって次元の違う世界に移動するからだろう。




    侵入者

    2016.12.23 09:05|真理を求めて
    まつたけ岩

    神の子として生きようと決意してもすぐにこの世の雑多なものが入り込んできて邪魔をする。それらのものは容赦なく侵入してくる。そういうものだとわかっているので自分の心を立て直す。すると元の清浄な状態に戻ることが出来る。

     

    常にその繰り返しが行われるのがこの世の生活の特徴であろう。真理への理解が進むほど(悟る程)立て直しに時間がかからなくなる。侵入者はどこかに行っている。この地上界の環境は自分の心を鍛えるのに最適なのかもしれない。

     

    雑多なものに捉われる時は視界が狭くなっている。そこから自分を解放すると視界が開けてくる。自分自身をしっかり確立しておけば侵入者の存在は小さくなる。自分がグラついていたりすれば大きくなる。

    注釈
    これはいつものインスピレーションではなく私自身の思いです。

    母の旅路

    2016.11.08 08:55|真理を求めて
    青い海と岩

    数日前に我が家で妻と長女と共に3年前に旅立った母を偲ぶささやかな催しを行った。世間で言う3回忌は去年子供や孫達全員が揃ったところで済ませている。それも我が家のダイニングルームでロウソクの灯りの元で静かなクラシック音楽を流しながら行った。去年も今年も宗教色は殆んどない。

    今回も同じように始めに私が母に語りかけ、その後各々が口に出さずに母に思念を送ろうということにした。始める前に適当な母の写真がないか探していたら両手のひらがしびれてきた。これは常に私が感じているもので霊的エネルギーを受けている時のサインである。そうなれば写真も必要が無い。通常、故人の写真を見る事によって自分の思念を集中出来る結果、霊界にいる相手に届き易くなる。

    その時には母はすでに我々がそういう催しをしようとしていることを察していたようである。このように縁ある霊界の人とは常につながっているので心配をかけたりするのは良くない。逆にこちらが喜びや幸せを感じている時にはそれを共有してくれる。大体において他界した人はしばらく経つと残してきた家族や財産への執着は無くなっている。彼らが望むことは残された家族が「元気に毎日を過ごす事、そして自分の人生を全うして欲しい」その一点に尽きるようである。

    地上時間で3年も経てば旅立った人はかなり進歩していて、それは地上の人間の成長よりも早いスピードで進んで行くようだ。母はその場に来てくれたが母の本質は変わっていない。しかし生前や他界当初の頃とは別人のように感じられるものがある。肉体から解放されると本来の霊性である自分の“大きな意識(霊的意識)”に戻っていくのだろう。意識の変容と言ってもいいかもしれない。地上人生においてはその“大きな意識”の一部しか表現されていないのでそれはその人物の全体像ではないのである。

    この世で表現している人物像は一時の姿、あるいは仮の姿ということになるだろう。私たちの本体はもっと大きなものなのだが肉体に宿ってこの世で生活している時には多くの制限を受けてその一部しか表に出てくることはない。

    我々はこの世では肉体を通して地上世界に繋がり、物質の波動の中でがんじがらめにされているということ、しかしその状況は自分の大きな意識が望んだ事である。このように人の意識には二つのステージがあり、日常、地上の人間は小さな意識(顕在意識)で生活している。大きな意識(潜在意識、真我)の片鱗をたまに感じることはあっても、それには気が付かない人が大半であろう。

    ともあれ霊的交流の場で感じる旅立った人達はおしなべて清々しく羽のように軽くて気持ちが良い。煩悩を生む肉体から離れるとこうも違ってくるのかと思う。この世の人達は地上世界を中心として見ているから感得出来ない霊界の事は夢、幻のように感じてしまうのである。そして異常なまでに死を恐れ、悲しむ。本当は逆であったことが分かるのは大半の人にとって死後になるのだろう。

    追伸
    感受性豊かな娘が自分のブログで母へのセレモニーについての感想を載せているので一読頂けたらと思います。人がそういうものを感じ取ることが出来た時、死生観は一変するはずです。

    「旅立った人はどんどん進んで行く」11月4日
     http://springcherry.blogspot.jp/

    公開ヒーリング体験記  その2

    2016.05.20 08:50|真理を求めて

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    さて私は見学者として参加していたが直接ヒーリングの申込者が今回は少なかったという理由で直接ヒーリングを受けるべく指名を受けたのである。来る前から何となくそういうものを感じていたがそれが現実になった。優しいヒーラーが私の横に座り左腕に手を当ててヒーリングを施してくれた。それは羽が触れたような感触であり私が祈りの時によく感じるもの、霊が隣に来てくれていると感じるものと似ていた。手を当ててもらっているところがだんだん暖かくなってきた。誰かに手を当ててもらうと手のひらからエネルギーが出て暖かさを感じるがこの時のものはあきらかに質が違い、しかも次第に暖かさが増していく。
    暖かさは全身に波及して行き、同時に手のしびれを感じた。手がしびれるのは朝の祈りと瞑想の時によく感じる現象であり霊的エネルギーを受けて体が反応しているのだろう。

    そのうちに動悸が始まった。自分でもかなり心拍数が上がっていることが自覚できた。脈拍数をチェックしてみようと思ったが腕を動かなければならないのでヒーラーさんの邪魔をしてはいけないと考えて止めた。ちょっと苦しいと感じるくらい脈拍数が上がっていたようでドックンドックンという心臓の鼓動が聞こえてくる。

    ヒーリングの時間は約10分であり、その間は瞑想状態を保っていたが終わりに近いと思われる頃につい他の事を考えてしまった。それは後で感想を聞かれた時に何と答えようかと思ったのである。何故なら私の心は喜びに満たされていてその気持ちを表現せずにはいられなかったのである。ヒーラーさんの生き仏のような態度や霊界の愛を直に受けて幸せの極致を感じていた私であったから。後で考えるとちょっと喋りすぎたかなと反省した。後の人のスケジュールに影響しなかっただろうかと…..。普段の私は無口なほうで余計な事は喋らないつもり。後で娘から「お父さんは状況を解説していたね」と言われた。
    そして「こちらと波長を合わせなさい」というインスピレーションを感じたが私がつい余計な事を考えてしまったからだろう。

    というわけで公開ヒーリングは私にとって至福の時であった。これまで霊的真理普及において一人で頑張ってきて(実際には背後霊の守護を受けてきたから孤独ではない)世間からあいつは変わった奴と思われたり、宗教者から敵視されてきた事もあった。今回のヒーリングでそれを補って余りあるものを頂いたのである。私は終わって会場を離れるのを名残惜しく感じた。自分の魂の故郷はこの世界にあることを実感することが出来た。

    尚、何故私が直接ヒーリングを受けることになったのか?その理由は自分の心の中ではある程度わかっているつもりだが今はあえてこの場で公表しないほうがいいと感じている。確かに私は持病を持っている。後になってその結果が見えてくるのだろう。

    3年半前に私は娘の病気の事でこのヒーラーグループに遠隔ヒーリングを依頼したことがあった。その時電話で申し込んだが相手の人と話をしている時に受話器を持つ左手が脈打っているのがわかった。その時に私は彼らがやっていることは本物であると感じたのである。電話をした時から霊医との通路が開かれるというのは本当である。そして娘が遠隔ヒーリングを受ける時間になると私も別の部屋で横になって瞑想状態にしてみたが普段手足の冷える私だが、体が暖かくなり愛に包まれている感じがした。紹介者にも霊的パイプが繋がっているようである。人間が感じる以上に霊界では様々なことが行われていると考えて間違いないだろう。

    ヒーラーグループによればヒーリングの最終目標はヒーリングを受けるその人の霊的覚醒であり、病気をもたらすものは心と肉体の不調和が原因であるから不調和が是正されれば肉体の病気は自然に治癒に向かうということである。また肉体の変調が治ったとしてもその元である心(霊、霊体)があるべき姿に戻らなければ病気はぶり返すことになる。病気はカルマが原因となっている場合があるのでその場合はいくらヒーリングをしてもカルマが切れるまでは治らない。カルマは神の摂理への違反の結果であるから誰もそれに手を加えることは出来ない。

    霊的治療は霊界の人類の浄化運動の一つの柱になっているようであり、そこに大きな力が注がれているということである。そしてこれはあくまでも霊界主導の事業であること。たしかに今回の公開ヒーリングを体験してそういうものを感じることが出来た。ヒーリングを受けたい人は前もってその内容をよく理解しておいたほうがいいと思う。ヒーラーグループのサイトを読むことによってその趣旨を理解することが出来る。

    この霊界主導の事業に携わるヒーラーグループは全員がスピリチュアリズム普及会のメンバーであり長年に渡って霊的真理普及の為に高い志を持って活動されている人達である。普及会もヒーラーグループも他に類を見ない高度な霊的知識を持ち、他のスピリチュアリストと呼ばれる人たちの模範であり、霊的真理の普及の為に献身的な努力を続けているサークルである。
    終わり                 

    公開ヒーリング体験記  その1

    2016.05.16 09:15|真理を求めて
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    私は先月、日本スピリチュアルヒーラーグループ主催の長岡京市で開かれた第13回公開ヒーリングに参加する機会を得た。公開ヒーリングは年に一度定期的に開かれ今年で13回目になる。これまでは横浜など関東地区で開かれてきたが今年から年に2回開催され、そのうち一度は関西圏で行われることになった。なるべく日本各地の人達が参加できる機会を増やしたいとのことである。私と娘は参加申し込みをしたが申込者が多いので抽選になるとのこと、参加出来るも出来ないも霊界からの指名によるだろうと思っていたが二人とも抽選が当たり参加できることになった。後で聞くと定員30名のところを90名の申込みがあったらしい。

    我々は小豆島に住んでいるので京都方面に行くには早朝出発しなければならない。開始時刻に間に合わせる為に当日は朝暗いうちに起きて早朝のフェリーに乗った。島はどこかに行こうとすると必ず船に乗らなければならない。その不便さはあるが自然環境はとても良い。

    家を出てからは額のアジーナチャクラと呼ばれる場所が長岡京方面から引っ張られているように感じた。吸引力が働き吸い寄せられているようであった。ヒーリングの会場に到着してその部屋に入ってみるとすでにそこは次元の違う空間になっていた。ヒーラーや関係者の方々とは初対面にもかかわらず、以前から顔見知りであったように感じられ全く違和感がない。お互いが無意識のうちにこれまでにテレパシーで意志交換していたかのような気がした。

    ヒーラーの方々は白い服を着ているが、とても物腰柔らかで初対面の相手を優しく包み込んでくれる。
    そして聖なる雰囲気が滲み出ていてこれは本物であると感じさせるものがあった。一般の医療関係者も白衣を着る(私もかつてはそうだった)がその雰囲気はかなり違う。医療関係の人間はどうしてもある種の緊張感を漂わせていて患者さんもそれを感じて緊張してしまうものである。彼らには一切そういうものがない。

    医療関係者はどうしても自分の力で患者を治さなければならないという思い込みがあるから肩に力が入り、それが緊張を生む。一方、スピリチュアルヒーラーは自分は霊力の通路であり、患者を治すのは霊界のドクターであると割り切っているから力む必要が無い。力みや自分へのこだわりがあると霊力の流れを妨げる。極力自分の我を抑えなければならないだろう。

    ヒーリングが始まり私は見学者としてその様子を正面から見た。場内に霊的なパワーが一段と充満してくるのを感じた。少し指の先に痺れを感じるがこれは毎日の瞑想の時の感触と同じである。そこで人のオーラを見る時の状態にしてヒーリングが行われている場面を見てみた。人のオーラを見るには自分の目の焦点を少しずらすような感じにすると見える。そうすると自然に軽い瞑想状態になり日常意識を少し離れることが出来る。オーラを見ようとすると自動的にそういう状態になるというわけである。

    ヒーリングが行われている場所の後ろは白い壁になっていたのでオーラを見るには都合がいい。壁を見ると人の形をした白っぽい影のようなものが何個も現れたり消えたりしている。また同時に丸い形をしたものも。そしてそれらが上下左右に動いていく。それは只ならぬ光景でありこれほどの規模のものを私は見た事がなく感動と興奮を禁じ得なかった。
    何人もの(10人くらいか?)霊医や関係者がその場に来ていて全員が一つの調和のもとに忙しく働いているのではないかと感じた。私が感じる所では彼らはやはり地上時代は医者であったためか優しい中にもそれなりの威厳がある。ちょっぴり厳しいところもあるような気がした。霊を身近に感じる時はその霊の個性や独自のエネルギーを感じ取るものである。女性の霊は優しくて包み込まれるような感じであり男性の霊は威厳や強さを感じることが多い。

    ヒーリングの部屋は神聖で強力なエネルギーによって満たされ、まさに霊界がその場に顕現していると表現するのがふさわしい。地上にありながら参加者は霊界を実感し、そこからの深い愛によって癒されるのである。そこには大きな魂の感動があり、その為泣いている人も多かった。人は感動を覚えると泣けてくるのである。                   
                                                                              続く


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    目的は果たせたか

    2016.03.25 09:33|真理を求めて


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    家族を守り、家を維持し、子を育てて一人前にし、自分の責任を果たした。社会への貢献も出来た。不正な事もせず真っ直ぐに生きてきた。

     

    時に煩悩から起きる衝動に負けることもあったがそれらは一般的な人間の行いの範囲内のことであった。全体としてみればそういう人間はこの世に生まれて来た目的は果たせたと考えればよいであろう。

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    一人ぽっちの人間はいない

    2016.03.09 10:39|真理を求めて
    八方池へ 

    あなたはたった一人で生きているのではありません。この世でも霊界からも常に見守られている事を忘れてはいけません。愛に包まれていることを知ってください。あなたはそのお蔭でここまで来られたのです。特に霊界からは無償の愛を受け続けています。どんな時にも決して見放す事なく守り、導いてくれている存在がいることを知ってください。


    限界

    2015.12.08 09:44|真理を求めて
    悟りの顔


    人は今の姿が限界であり、それ以上のものを表現することは出来ない。装うことは出来ない。社会的地位や職業に関係なく現在表現しているものがその人間の本来の姿である。

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    様々な姿

    2015.12.04 14:34|真理を求めて
    個性

    我がまま人間とは自分に都合の良い世界を作り上げてその中で生きている者。愛に乏しく、後でその修正を迫られる。


    とげとげしい人間は自分も周囲の環境もとげとげしいものになり、心穏やかに過ごせる時がない。


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    悪とは未熟な魂の表現

    2015.10.29 09:11|真理を求めて

    顔


    悪事を働く者(摂理に逆らう者)を憎む必要はありません。そういう者達には必ず神の裁きを受ける時が来ます。彼らにもあなたの目にもそれが見えないだけです。神は決して悪事を見逃すことはありません。


    そういう人間を待つ悲惨な運命を知れば、むしろ哀れみの感情が湧いてくるはずです。彼らは将来どういう境遇が自分達を待っているか少しも知らないのですから。


    悪とは未熟な魂の表現です。人間は神の一分子である故に未熟な者もいつかは向上して行かねばなりません。そのため摂理に逆らった罰として神のお仕置きを受けねばならないのです。それは神の大愛の表現です。


    目覚めた人は幸せ

    2015.09.11 14:47|真理を求めて

    日本海

    霊的に目覚めた人は幸せです。ようやくこの世に生まれてきた目的を達成できた事になるからです。それは次のステージに進級できるだけの資格を得たことになるからです。

    次のステージではより大きな仕事があなたを待っています。元々そのためにあなたはこの世に生を受け試練の期間を過ごしてきたのです。これからはつまらない問題に首を突っ込まないようにしましょう。

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    霊界から地上世界を見ると

    2015.08.14 06:45|真理を求めて
    風鈴

    霊界の人から我々を見るとどのように見えるのであろうか。彼らは人間の肉体を見ているのではなくそのオーラを見ているのである。つまり霊体を見ていることになる。霊体は肉体と重なり合っているので人間は死後霊体だけになってもその容姿は生前と何ら変わらない。

    死後は肉体が無くなるので五感で地上世界のものを認識することが出来なくなる。すると地上世界のものは何も見えなくなるのかというとそうではない。見えるけどその感触が違ってくるはずである。

    物質を認識できるけど固さがない、掴めない、動かせないということになるのではないだろうか。

    私はこの間、面白い夢を見た。いくつかの食器や家具類を掴もうとするけど掴めない。明らかに見えているのにフワフワでまるで気体のような感触がした。もちろん動かしたり持ち上げたりも出来ない。これはどう考えてもあちらに行った時のこの物質世界の感触を体験しているに違いないと感じた。

    オーラは人間や動物だけではなく昆虫などあらゆる生き物にある。それだけではなく鉱物など自然のものにもある。我々の身の回りのもの、ボールペンや携帯電話などにも全部オーラがある。オーラが見える人ならわかると思うが遠くの山を見ても山が薄ぼんやりとした色彩のものに囲まれている。木や葉も独特の色をしたオーラに包まれている。人の作った建築物にももちろんある。

    このように物質も二重構造になっているので地上世界の人間は物質の波長をキャッチし、霊的世界の人間は霊的な波長をキャッチしているということだろう。サイキックな能力があれば霊的な波長であるオーラが少し見えるということになる。ちなみにオーラは磁気的エネルギーであり人間が感知できるのはその一部に過ぎないようである。

    シルバーバーチの言葉の中に自分は地上世界の建物の壁を自由に通り抜けることが出来るというものがあるがそれは正に波長の違いによって物質は意味を成さなくなるということであろう。他界した人達は物質に影響されないのだから壁があろうがドアを閉めていようが自由に家の中に出入りすることが出来る。夜も昼も関係がない。

    地上の人間は物質しか認識できないので物質の世界以外は無の世界であり、死後の世界も認識できないから存在しないと思っている人間も多いがそれは実相の片面だけしか見ていないことになる。

    霊界からはその人間のオーラを見ているわけだからその人間の本質が見えることになる。オーラの色彩がその人間の進化の程度を現すので、霊界からはものを言わなくてもその人間の程度がわかるということになる。高級霊の目からはその人物が今までにどういうことをしてきたか一目瞭然ということになるだろう。我々は霊界の審判を待たずとも本当はこの世にいるうちから丸裸にされているのである。

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    自分が望む道を

    2015.04.13 09:29|真理を求めて
    西の浜

    自分が心からこうしたい、こうあるべきと思う道を選びましょう。他人の思惑を気にして自分の道を外すようでは人生を全うすることは出来ません。人にはそれぞれに摂理の枠が定められていますが摂理の許す範囲内で自分が望む道を進めばいいのです。

    思い通りにならない世界

    2015.01.13 10:28|真理を求めて
    チョコやん 

    母より

    そこは自分の思うようにならない世界だから思い通りにはならないよ。一人ひとりのエゴがあるからそれが衝突してしまう。だから色々な問題が起きるんだよ。ある程度ぶつかり合うのは避けられないから。でも人間はその中で揉まれて成長していくからね。

     

    その人の事を思ってしてあげても分かってもらえないこともある。でもそれは自分の徳となって見えないところで積み上げられているから。後でこっちに来た時にそれがわかるよ。絶望するようなこともあるかもしれないけど、それはまだ小さな視野で見ているから。そっちの世界の視野で見ているからだよ。

     

    お前は神を信じているのだから、そういう人間は今は色々あったとしても後で必ず喜びや幸せを味わうことが出来るよ。お前とこうして語り合えるのは私にとってとても幸せなことだ。普通はそんなことは出来ないんだけどね。

     

    お前とはまた一緒に暮らすようになるからその時を楽しみにしているよ。それまでに悩んでいる人たちを少しでも助けてあげて。知らない人たちに教えてあげなさい。それがどれほど助けになることか。こちらから支援されているおかげでお前はそういうことが出来るのだから常に感謝の気持ちを忘れないように。


    霊界通信の話

    2014.12.24 11:09|真理を求めて
    豊島

    今日は何か通信がありそうだなと感じると私は一人になれる場所に移る。大抵は神棚のある部屋がその場になる。これまでもそこが通信を受ける場所になってきた。しかしリタイアの身とは言っても何者にも邪魔されずに自分一人の時間を持つのはそう簡単な事ではない。


    望みどおりの環境が手に入るとこちらから相手に対して思念で語りかけるのである。それはこの世の人間同士と同じであり、違うのは言葉に出さないことだけである。


    「おはよう!元気にしているかい?」という具合である。


    この世とあちらの世界ではバイブレーションに違いがあるのでそれを調整する自動翻訳機のようなものがないと解読することが出来ない。あちらの人間は地上の人間の思念を理解出来るのにその逆が出来ないのである。


    相手から伝わってきたものを全部記憶出来ればいいのだが最近は歳のせいか内容を忘れてしまう。大切なものを忘れてしまっては申し訳ないので筆記用具が必要になるというわけである。メガネも必需品である。


    こういうものを受け取るには背後霊の力なしには出来るものではない。あちらで通信網を用意してくれていて彼らが必要と認めたものがこちらに授けられているようである。私の場合は何の縁もない相手から受け取ることは難しく何かの縁や繋がりが必要である。その意味においてもこちらは唯の霊界の道具なのである。この話は旧ページにも載せたかもしれない。


    霊界通信によれば地上近くにそういうエージェントが待機していて地上の人間の能力の度合いをあらかじめ調査しているようである。この情報を受信するには誰がふさわしいかということを決めているらしい。大半の事はあちらでお膳立てをしてくれていて、最後にちょっとだけこちらの出番が来るようである。



    この世の人生は一瞬

    2014.12.16 09:32|真理を求めて
    大麻山

    人がこの世に生まれてくるのはこの地上世界でしか体験出来ないものがあるからに違いありません。地上世界は貴重な教訓を得る為の場と言えるでしょう。ある人にとっては修羅場のように感じるかもしれません。幸せを感じてもそれは一時的なものであり長続きはしません。アップダウンを繰り返し、揺さぶられながらも一歩一歩前進していくのがこの世における我々の姿なのでしょう。

     

    霊が肉体に宿って過ごすという形態は宇宙生命系の中では低い進化のレベルなのかもしれません。シルバーバーチも地球は全宇宙の中でもビリから2番目に進化の遅れた惑星であると言っています。一旦肉体に宿ったら最後、肉体の寿命が尽きるまでこの地球の引力に引き付けられてしまうので逃げ出すことが出来ません。そこであらゆるものに否応なく付き合わされることになります。

     

    流産は胎児に宿った霊がこの世に出てくるのが怖くなって脱出しようとして起きるという話を聞きます。最初は覚悟を決めてある母体に宿ったけれども出産が近づくとやっぱりこの世に生まれ出て苦労するのは嫌だというわけです。それ程この世は霊界に比べて大変な所なのでしょう。霊界人の中にも臆病な人がいるということです。

     

    しかしこの地上世界で過ごす時間は永遠の人生という尺度で見れば一瞬ということになるでしょう。何十万年、何百万年、そして何億年も霊として宇宙での人生を過ごすと考えれば私の母のように100年生きたとしてもその期間は点のようなものでしょう。


    それを考えたら今の人生などあっという間に終わってしまうのです。何時までも現在の問題に関わっている必要はないのです。関わろうにも関わり続けることは出来ないのです。

    有名人の卒業

    2014.12.08 10:29|真理を求めて
    ビーチビラ夕焼け

    年末になると他界する人が増えるようです。 私の祖父母もその季節に向こうに渡りました。11月から12月は自然界のエネルギーも枯れてくるので人間の生命のリズムもそれに調子を合わせるようなところがあるのかもしれません。

    有名な俳優が次々とこの世を卒業して行きました。そのたびに次のようなコメントが流れます。

    「びっくりしました!時代を象徴した人が亡くなってしまいました。寂しいですね、悲しいですね」。

    しかし霊的事実に立ってみたらそれは祝福すべきことです。彼らはこの世での任務を終えて次のステージに進んだのですから。そこではそれまでの仕事が継続されるでしょう。それは一段と高度なものであり、同時にこの地上界の後継者に対して支援をしようとするはずです。

    彼らは今頃は霊界の審判の頃かもしれません。自分の地上人生を振り返り、多くの反省点にも気づいていると思います。

    街角でコメントを求められた時に次のように答えたらどういう反応が返ってくるでしょうか。

    「ああ、あの人亡くなったのですか?彼は人や世の為に十分尽くしてこられましたからね。この世の重荷から解放されたのですね。お役目終了おめでとうございます」。

    幽界の友 3

    2014.11.17 10:29|真理を求めて
    中山の池

    あちらでも色々なコミュニティーが形成されているのだろう。そしてそれは同じ意識のレベルのものが集まってくる。この世でもそういう傾向はあるがあちらでは物質の壁がないので顕著にその傾向が現れるであろう。

    彼の働いていた市は必要に応じて開かれるようであり、何時もあるわけではなさそうである。そこにはこの世にいた時に馴染みのもの、親しんでいたものが置かれているようである。子供には玩具やお菓子類、大人にはうどんやお好み焼き(関西風のものであり関西出身の人向け)などが並べられていてもおかしくはない。それらは地上世界のものととても良く似ているはずである。

    何故そういうものが存在しているのか?幽界では多くの人がまだ地上臭が抜けず時々その雰囲気を味わいたくなるから自然発生的にそういうものが生まれてくるのではないだろうか。朝市などが必要であるとそこの住民が望んでいるから開かれるということになるのだろう。シルバーバーチによれば基本的にあちらにはこの世にあるものはすべてそのレプリカがあるらしい。

    要するにあちらでは心に思うことが形を取って現れるのである。やりたいと思うものは大体存在しているようである。私が見た光景はあちらの世界(幽界)の一部であり、それも垣間見たに過ぎない。死後の世界のほんの一部分ということになろう。そしてまだそこは霊界ではないようだ。これは直感でそう感じる。それにしても死後の世界のことを何も知らずに死んだ場合、自分がいる環境は生前と何も変わらないように感じるかもしれない。恐らく自分が死んだとは気が付かないのではないだろうか。

    ここで数日前に彼と少し問答をすることが出来たので取り上げてみたい。

    私) そちらでは食べたり飲んだりするのか?
    彼) うん、実際に食べたり飲んだりしているよ。

    私) 味は?
    彼) 人によって違うみたいだ。ある人は美味しいと感じ、ある人は不味いと感じるようだ。

    私) トイレには行くのか?
    彼) トイレには行かなくていい。初めは行かなくてはいけないのかと思うがそれは必要がないことがわかるようになる。

    私の解釈
    あちらに行っても暫くの間は地上生活の習慣が残るのであろう。霊と肉体が合体している地上生活を続ける内に霊の部分(霊体)も影響を受けて死後もその感覚が残っていると考えられる。食べなければいけない。するとトイレに行って排泄しなければいけない。夜は寝なければいけない。そういう習慣はやがて時間の経過と共に消えていくのであろう。

    幽界の友 2

    2014.11.13 13:58|真理を求めて
    岩山2

    ここでは私が感得した友人の様子とシルバーバーチ他の霊界通信の内容と照合しながら平均的な人が辿るであろう死後の世界の環境について話を進めたい。

    人は死後も生前していた事を続けようとする。長生きした人ほど地上での生活習慣から抜けるのに時間がかかるだろう。例外的なケースを除いて人は死後にいきなりそれまでと違うことをするのではなく、暫くは同じようなことを続けようとするのではないだろうか。そしてその為の環境が用意されているというわけである。そもそもあちらの環境というものは人間の思念によって作られたものだからである。

    そういう意味ではこの地上世界も同じであるが物質に囲まれているために自由度が低いというわけである。結局地上世界は物質の束縛を受ける世界なのである。

    学生は勉強、芸術家は芸術活動、教育関係出身の者は教育を、職人はその仕事を継続しようとするであろう。職種によっては無いものもあるかもしれない。金融関係の仕事などは恐らく無いだろう。あちらではお金は必要がないのだから。風俗業なども無いと思うが幽界の下の方には肉体が生む煩悩から抜けていない者もいるだろう。そこから連想すると何らかのものがあってもおかしくはないと思う。

    私の友人は生前から働き者であり、じっとしてはいられない性分であった。絶えず動いていないと気が済まない人間であった。そういう人は身辺を見渡しても結構多いと思う。そして彼は商売が好きであり市場のようなところで人を相手にするのを得意にしていた。私のビジョンで見えたシーンの中で彼はとても生き生きと働いていたし、じっくり話をする暇などなかった。その場には彼と似た人たちが集まり市場を作ったり物を生産したりしているのだろうと思う。

    あちらの世界でも物を生産しているなどという話は一般の人には信じがたいことに違いない。地上のものとは内容に違いはあるだろうがあちらの環境に相応したもの(非物質といった方が良いか)が存在しているのではないかと思う。元来原型はあちらにありそれが地上世界に顕現していると考えたほうが正しいかもしれない。

    波長の似たもの同志が自然に集まってくるのが死後の世界の特徴であり、この地上界のような障壁がない。為に思念が現実化するまでに時間がかからない。思念が形を伴って現れる世界においては何かを作ろうと思念を集中すれば地上のような労力なしに何かを創造することが出来るようである。ところが地上では大きな労力と時間を要する。

    去年の夏に私は以前に霊場めぐりをしていた頃、観音様や不動明王を本尊とする寺に近づくとその像が浮かび上がってくる、見えるというコラムを書いた。それは人間の思念はそういうものを創造する力があるという話である。人の思念の力はあちらに行くと直ちに現象として現れるのではないかと思う。例えばお茶やコーヒーが飲みたいと思っただけで目の前にそれが現れる。この話はよく霊界通信で聞かれるものである。我々が夢で何かが欲しいと思うとそれがすぐ現われることを多くの人は体験していると思う。またどこかに行きたいと思うとそこに行っているということもあるはずである。夢の中の現象を思い浮かべてみたら理解しやすいと思う。

    ここから先は主に多くの霊界通信で語られている幽界の様子になる。
    家を建ったり集会所を作ったり、また樹木を剪定して庭を綺麗にしたり果物や野菜を栽培したりすることが出来る。家を建てるのは地上で大工や左官をしていた者が携わるし、庭は元庭師が手入れをする。あちらでは地上でしていた仕事が存続していくのである。故に地上での努力が無に帰するということはないのである。そしてそれらの仕事は全て善意であり無償で行われるのでお金の心配がない。各自がそれらの技術者に望み通りの家を建ててもらい快適に生活することが出来る。



    次回に続く


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    幽界の友 1

    2014.11.11 09:38|真理を求めて
    重ね岩

    私は昨日、朝の祈りとそれに続く瞑想において今年初めに他界した竹馬の友が忙しく働いている様子を見た。ビジョン(霊視)の形で見えたものであるがそれは通常肉眼を通して見る映像とは違いがある。内容は以下のようなものである。

    彼は何かを作って市場のようなところへ出してそれを売っている。売ると言ってもこの世のようにお金をもらうのではない。欲しい人に無償で与えている。彼は忙しくしていてこの世のことを思い出すことが少なくなっているようだ。それを心から楽しんでいるのである。

    彼には生前からそういう仕事が性に合っていて夏祭りの時などは張り切って働いていたことを思い出す。出店が何件も出ていて賑わっている。日本の各地で見られる朝市のような光景を思い起こさせる。そこを人々が大勢歩いていて自分の欲しいものを探しているようである。おそらくそこは幽界の一部であろう。

    彼は何を作っているのか?直感で麺類のようなものを作っているような感じがする。生前は製麺業を営んでいたのでそれに近いものを作っているに違いない。しかしその内容はこの世のものとは少しばかり違うだろう。この世にいる時、麺類が好きだった者は死後日の浅い時はやっぱり麺類が欲しくなるだろう。私もうどんやラーメンなどの麺類がとても好きなので最初のうちは麺類が恋しくなるかもしれない。出来れば彼が今何を作っているのか聞いてみたい。今回は彼は忙しくしていてまともに対話する余裕は無かった。

    こういう話は死後の世界のことなど今までに一度として考えたこともないような人には到底理解し難いかもしれない。立花隆氏なら脳の中の変異現象の一つと解釈するであろう。脳が人の意識を生むという発想しか出来ない人たちにはこんな話は妄想としか思えないだろう。唯物的発想では霊的な世界は理解できない。しかし人は死ねば終わりではなくこの世で学んだことを基盤にしてそこから新たな生活が始まるのである。人の本体は肉体ではなく霊であり永遠に生き続けるのだから。死は唯住む場所が変わるというだけのことなのである。
     
    次回に続く

    自然界の営み

    2014.10.07 15:28|真理を求めて

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    予知現象は確かにあるし私の体験でもこれまでに当たっていたものもあるが何時、何処でそれが起きるということを予知できなければ意味が無く、いたずらに混乱を招くだけであろう。

    そういうことよりも自然災害を起こす原理を理解する事のほうがはるかに大切だと思う。昔から人は何か自然災害が起きると人間の行いが悪いから神の怒りを買ったという解釈をしてきた。さすがに現代人の知性はそういう話をまともに受け入れなくなっているとは思うが、今だにそういう解釈をする人もいる。

    ところが自然を動かしている機構は人間界のものとは別のものである。人がどう考えようが、望もうが望むまいが自然は自然界のルールで動いていくのである。もちろん排ガスによる温室効果など人間の活動が自然界に影響を与えている面があり、自然界がそれに反応して様々な現象を起こすことは事実である。

    しかし火山活動や地震などは人間の力の及ぶものではなく、それは地球の胎動なのである。地球は今までも、そしてこれからも人間の事情にはお構いなく活動を続けていくであろう。自然界は上から下まで一糸乱れぬ機構が働いていてそこに人間が介入することは出来ないのである。

    昔から天変地異が起きると様々な祈祷が行われてきた。しかし人間がいくら祈祷しても自然の営みには何の効果もないのである。密教が日本に渡来した頃、平安貴族はその威力を信じて色々な祈祷をしたようだ。雨乞いの祈祷をしてもし雨が降ればそれが効いたと感じたかもしれない。あるいは今でもそういうことを信じている人もいるかも知れずこんなことを言えばお叱りを受けるかもしれない。例えばある高僧が噴火している火山を止める祈祷をしたら噴火が止んだということを書いている本があった。何事も理性で判断して正しいと感じることが真理への道だと思う。

    嵐の前に

    2014.08.09 15:33|真理を求めて
    今年は台風の当たり年のようだ。次々に台風がやってくるが今回の11号は四国や西日本を直撃しそうな気配である。台風が去るまでじっとしている他はない。11号の影響が出始める前に私の叔母はこの世を去り、その後の葬儀など一連の行事も滞り無く終えることができた。そういうものにも法則が働いているようだ。人間が思い通りに出来るものは殆どない。

    叔母は私の実母であり、去年旅立った母(養母)の2つ違いの妹であった。実母は私をこの世に産んでくれた人である。
    彼女の存在なしには私は今こうしてこの世には居なかったわけである。私は実母から肉体を授かり、それに宿って自分のこの世での人生を進めてきたのだから。

    葬儀は従来通りの形式の踏襲なので親族の出る幕はなかった。兄夫婦が仕切っているのでこちらはそれに口を挟むことはしない。葬儀の後の初七日(近頃は葬儀に続いてやる家が多いが遠方からの親戚を考慮してのこと。しかし葬儀で疲れているから今ひとつ気乗りがしない)の席で私はようやくメッセージを朗読することが出来た。もちろん霊的真理を理解している人は極めて少ないので情感に訴えるものにした。これまで実の母でありながら「お母さん」と呼んだことがなかったのでその場で初めて「お母さん!」と呼びかけてみた。そしてこれまでの感謝の意を述べた。

    前日の枕かんき(お通夜の前に家族だけで行う死者を弔う行事)を妻が頼まれたので詠歌を奉納した。するとその場には9ヶ月前に他界した私の母(去年何度か母からのメッセージを掲載)が一番に現れた。妹を後ろから支えてその場に連れてきたような感じがした。「ハルミ、見てごらん。お前のために皆が集まってくれているよ」というところだろう。

    次にその家の姑(私の祖母にあたる)がちょっとだけ現れたがすぐに消えてしまった。不思議に実母の夫(5年前に他界)の気配は薄かった。実母はまだ意識が朦朧としているように感じられた。まだ丸一日経っていないので当然かもしれない。

    母達姉妹は子供の頃からとても仲が良く、終生助けあって生きてきたので死後も当然その関係が続いていくことだろう。
    愛で結ばれた関係は一時離れ離れになったとしても必ず復活する。本当は離れたわけではなく、相手の存在が認識できないというだけなのだが。霊界(幽界)からはこちらを認識出来るのにこちらからは出来ない。その事が離別の悲しみを生んでいるというわけである。

    翌日の葬儀の場には実母の夫(私の叔父)が現れた。一層その存在が大きくなっているようで威厳に満ち、額が痺れるような霊力を感じた。只者ではないという感じでありこの場の主役という雰囲気がした。もちろん実母も来ていたが、自分の意志を表現することは出来ないようであった。

    叔父は暫くの間、目の前にいたがフッといなくなった。葬儀の間中居続ける霊はあまりいないようである。ちょっと来て関心のある人間の心の状態を把握したらそれで十分ということかもしれない。型通りのこの世の儀式の進行を見続けても意味は無いということなのだろうか。

    このように葬儀などの場には当人も現れるがそれ以外の霊が見に来ていることが多いようだ。当人は今ひとつ意識がはっきりしていないので傍について本人の自覚を促しているのだろうと思う。


    夢で再会して

    2014.05.09 09:16|真理を求めて
     

    数日前、夢の中に竹馬の友が現れた。彼がこの世を去ってから4か月になろうとしている。夢では我が家の裏の道のような場所で彼と出会って話をしている。その多くは思い出せないが忘れていないものを書き留めてみた。私は彼に対して色々質問をしてみた。

     

    私の問い:そっちに酒はあるのか?(彼は酒好きであった)。

     

    彼の答え:あるよ。ビールも酒もある。

     

    私:ウイスキーもあるか?

     

    彼:ウイスキーもある。でも僕はウイスキーは好きではない。

     

    私:そちらでは走っている人はいるのか?

     

    彼:いるよ。でもこちらのコースは全部曲線になっていて真っ直ぐなのはない。

     

    私:そちらで私の父(21年前に他界)に会ったか?

     

    彼:会ったよ。

     

    残念ながらこれだけしか思い出せないが、彼に会って一杯質問をしたことは覚えている。脳の容量は霊体で感知したものの何パーセントしか入らないので目覚めた後ではその内容の殆どを忘れてしまっているようだ。

     

    次の夜私は大学時代の先輩が宴席で彼の先輩と話をしているのを見た。彼はあちこちで人と話をしていた。夢の途中であれっ、あの人は亡くなっている筈なのに何でここで皆と話をしているのだろう?と思った。夢ではよくあることで他界している人が同じように出演していて全く違和感がない。その時は自分も自然にそこに溶け込んでいる。そして後で気が付くのである。

     

    それはあちらの人達がこっちに来ているのではなく自分があちらに行っているのだろう。就寝時には誰もがあちらの世界に出張している(故郷に帰っている)。

    しかしその時の体験はほんの少ししか思い出せない。というのは脳の容量は霊体に比べて小さいので目覚めた時にはその内容が変形してしまっていたり(奇妙な夢を見たというのはそういうこと)忘れてしまったりするらしい。

     

    ともあれ夢は自分がこの世の環境以外のところで活動している事、亡くなった人はちゃんと生きている事の証の一つであろう。

    嘘つきの世界

    2014.04.16 11:07|真理を求めて
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    竹馬の友はその後、祈りや朝方うつらうつらしている時に時々現われる。その時に彼から伝わってきたものの中で印象に残っているものがある。それは...。

    「こっちに来たらこっちの生活がある。次第にそっちのことから離れて行く。親切な人がたくさんいて面倒を見てくれる。こっちは嘘が通らない。生前の自分の事を振り返ると嘘で自分を飾っていた。そっちの人間は嘘つきばかりだ」。


    この世の我々はよく嘘をつく。殆どは言い訳だと思うが、もし一切の嘘が通らないとしたら、とげとげしい世界になるだろう。我々は何かをやんわりとかわす為に口実を考える。何かの行事などがあり、気が進まなかったとしても「行きたくないから行かない」とは言いにくい。そこで何か適当な理由を考えるのではないだろうか。

    嘘も方便という言葉があるがこの世を渡っていくには必要悪なのかもしれない。しかしそれも度が過ぎると自分の心の濁りとなってしまい死後の世界で苦労することになるのではないだろうか。幽界の下層部に行くとそこの住民は嘘つきばかり、お互いに騙し合っているような所があるかもしれない。あちらは思念が作っている世界なので同じ波長を持つものは同じ場所に集まることになるだろう。

    言葉を必要としない環境では一切の嘘は通らないだろう。その人の本性が丸見えになってしまうのだから。日常生活では多少の言い訳や方便を使わざるを得ない場面があるが、その意味と本質を理解しておくことが大切だと思う。それもあちらに行くための準備の一つであろう。

    再び瞑想の話

    2014.02.22 11:47|真理を求めて
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    俗世間との回路を一旦オフにしましょう。それがつながっていると次の段階には進めません。

    意識をシフトさせるためにはその人に合った方法があるでしょう。静かなクラシック音楽を流すのもいいでしょう。ショパンのワルツやノクターンなどはとてもいいと思います。私は去年の母の告別式にはBGMとして自分の音楽CDを持っていって葬儀社にそれを流すように頼みました。告別式の間はずっとそれが場内に流れました。

    それから私は読経をしていた頃がありましたが長すぎると知らないうちに他のことを考えている自分に気づくようになりました。その点真言は短くて瞑想状態の前段階を作るにはいいと思います。あくまでも自分の意識をシフトさせるための道具として意味があるでしょう。数秒、長くて数十秒で十分であり長くやっているとお経と同様になります。

    慣れてくればそういう道具も必要がなくなるでしょう。静寂で清らかな場所を確保できるならその場にいて何の道具もなくても数秒で意識をシフトできるようになります。

    自分は静寂の中にいると感じることが出来たら自分の身をその場のエネルギーに没入させて一体化します。自分とそのエネルギーとの区別がつかなくなってきます。それは言い方を変えれば主に肉体を起源とするエネルギーをシャットアウトしてしまうという事です。つまり肉体を持ちながら肉体を一時的に脱ぎ捨てるということです。

    その時とても爽やかな気分になれたら成功でしょう。霊的エネルギーが自分の体内に溢れ日常の雑事や人間関係等は細やかな事に過ぎないと感じられるでしょう。その状態になったときに本当の自分つまり霊的自我が目を覚まします。その事が最も大切なことでメッセージを受けたりするのは二次的なことです。

    人によっては上からや他界した家族のメッセージを感得しますがあまりそれを期待しないことです。それを求めすぎると禅定の状態を作る妨げになります。全てを神にお任せするという心境が何より大切です。

    頭頂部にはヨガでいうサハスラーラというポイントがあります。これは自分の霊体の霊的エネルギーが出入りするところで額や喉などにもそのポイントがあります。私の場合は頭のてっぺんがジーンとしてくることによって霊的エネルギーが入ってきていることを感じますがそれも人それぞれでしょう。

    最後に瞑想とともに祈りは欠かせません。むしろ祈りのほうが大切でしょう。

    「自分は神の子であり神の御心に沿って生きられますようにお導きください」

    という意味のことを自分の背後の霊団に祈念するのです。
    背後の霊団は必ず聞き届けてくれます。そしてそれは全宇宙の創造主、つまり神に届くのです。

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    瞑想の心得

    2014.02.02 15:59|真理を求めて
     

    心をニュートラルの状態にして何も考えないようにします。日常の思考を止め大いなるもの(神)に身も心も任せ切るようにします。その時自分の我が引っ込み、意識のスイッチが行われます。日常の我から潜在している大きな我(神の子としての)への切り替えが行われます。神にすべてをお任せするという心境になれるかどうかということが核心です。我が強く出ている人は自分へのこだわりからそういう心境になるのは難しいかもしれません。

     

    日常の雑事が心に浮かんでくるような状態では駄目です。自分の我などはたかが知れている、そういう心境になると幸せを感じる様になります。そういう自分を捨てた心境になった時に霊的エネルギーが流入します。イライラしたりストレスを多く感じる時は霊的エネルギーが不足しているのです。

     

    瞑想状態を得る事によって自分は神の子であるという感じがします。そして自分の日常は小さなものに占領されていると感じます。そういう時は同時に霊界の人達と通じやすくなっています。瞑想の時にそういう状態になれたらいいのですが、一方どうしても雑念が取れない時はやめた方がいいでしょう。決して無理したり力んだりしないことです。そして自分にとって最も瞑想に適した時間を選ぶことが大切でしょう。


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    通じるために

    2014.01.31 13:01|真理を求めて
      あちらの世界に行っている人と実際に通信が出来たらと考える人は多いでしょう。霊的真理を学んだ人ならそう思うのが自然かもしれません。ところがこれが簡単なことではないのです。実際には夢の中で会っているはずなのに皮肉なことにその体験は顕在意識には現れてこないのです。

    日常の物質の世話に追われている時の意識は到底霊界から来る霊妙な波動はキャッチ出来ません。私達は朝から晩まで肉体の世話をはじめとする物質的な波動に占領されています。そういう環境の中で例え僅かな時間でも自分の意識をそういうものから抜けだして清らかで崇高なものを感じてみることが必要でしょう。

    それが祈りであり瞑想なのですがそれをやってもあちらの世界の人と交信することは、多くの人にとって容易ではないでしょう。でも霊的真理を学んだ人はそれ以外の人たちよりもより近い位置にいることは間違いありません。理屈の上で霊的な世界があることを知っているからです。

    実際にあちらの世界にいる人と通じるためには自分の意識の中に一つのイメージを作り上げることが必要だと思います。その人の姿や声、独特なしぐさ等を思い出し、あたかも一つのエネルギー体のようなもの(ふさわしい表現でないかもしれませんが)を自分の中に作っていきます。その人のことを思うと自動的にそれが立ち上がって作動するようになります。

    そのイメージを立ち上げることは霊界に対して送受信の準備ができたことになります。焦点を定めるためにも漠然と祈りの言葉を繰り返すよりも具体的な意志を表現する手段として意味があると思います。漫然と読経を繰り返しても自分の意思表示をしていることにはなりません。私がよく感じるのは法要の席で経本を目で追っているだけの人が多いことです。そういうことをしても霊的な波動は出ません。ただその場に座っているだけということになります。

    私の場合はその人がこちらに気付き近づいてきたことを感じる一つのサインとして指先がチリチリしてきます。それから頬を羽のようなもので撫でられたような感じもします。感じ方は人それぞれでしょう。