Can't skip Hope

世界中がコロナ禍の今、人間がそれに如何に向かい合い行動すべきかを表現した動画が知り合いの方から送られてきましたのでご紹介します。癒しのエネルギーが込められ、分かりやすく詩的に表現されていますので出来るだけ多くの人に見て頂けたらと思います。
Can't skip Hope
https://www.youtube.com/watch?v=70tcUNgd8IM&list=RDCMUC5D1TiKg5e0Q2FDzlBk2mdA&index=3
去年の暮れに私は京都を訪れた。清水寺など有名な観光地は中国系の観光客で溢れていてそれは賑やか、というより騒然としていて早くここを脱出したいと思うほどであった。1月10日の「さ迷う人々」と1月22日の「人は人」の写真はその時の二年坂の風景である。
翌日、去年も訪れた本能寺に行ってみたら境内に入っただけで霊的エネルギーを感じた。去年は信長公の廟の前に立つと感じたものが境内全体に充満していた。その時に身に受けたインスピレーションは次のようなものであった。
「昔は話し合いで片が付かなかったら殺し合いをしてきた。しかし今は話し合いで片が付くようになってきている」。
戦国時代から400年以上が経過して人間は霊的に成長したのかもしれない。物的欲望はむしろ増幅しているかもしれないとしても。少なくとも敵の一族郎党を皆殺しにしないと自分の身が危ないというような状況にはない。今でも世界を見渡すと一部に例外はあるかもしれないが。
年明け早々イランとアメリカの間で戦争が起きるかもしれないと世界が危惧したことがあり、記憶に新しい。しかしこの時には双方が自重した結果大事に至らなかった。法則が働いたのかなと私は感じた。イランにはイランを取り巻く法則があり、アメリカにはアメリカを取り巻く法則がある。法則はその時の人間の進化に応じたものになるので以前ならば全面戦争になるところが小競り合いで済んだり、話し合いで解決出来るようになるのであろう。人間の取りうる行為にはその時その時の限界がありそれ以上のことは出来ない。それが法則の働きということになる。騒然とした世の中ではあっても裏では静かに人類の進化が進んでいるということになるのだろう。
今年の2月初旬、朝の瞑想の時にYさんが現れた。そして「霊界ではお互いの目を見つめ合うと考えていることがわかるので言葉を交わす必要がないのです」と言う。このメッセージはもちろん地上の言葉ではなくインスピレーションとして受け取ったものである。
この事は地上の言葉では表現することが出来ない。事実Yさんがすぐ傍に来ていることを感じてとても暖かいものを感じたが、これまた地上の生活においては無いものである。
Yさんだけでなく霊界の人々は言葉ではなく心で触れ合いをしている。Yさんの場合は父や母、叔父達とはまた違うものを持っている。それぞれの個性が表現されていて霊界ではすぐに誰というのがわかるのだろう。肉体や物質の壁がない環境においては自然とそうなるという事だろう。あちらは感性の世界ということになるがそれをこの世の言葉で表現するのは難しい。
とにかく人は殆どそういう世界に行くのだからそういう事を知っておく必要がある。この世とは全く別の世界なのだから。中には幽界の下の方でウロウロする者も多いが、そうならない為にはこの世にいる内から霊的事実を知っておかねばならない。
実際には霊的事実を何も知らずに他界するケースのほうが圧倒的に多いのではないだろうか。そういう人たちはまず幽界の下の方で引っかかってしまうだろう。何とか生きているうちに知っておいて欲しいとこちらが願ってみても彼らは肉体としての自分と五感で感じるものしか理解出来ない。死後の世界の事等を大真面目に話すとこちらが変人扱いされてしまうのだからどうしようもない。将来困ったとしてもそれは自己責任なのだから仕方ないのだが。
でも霊界ではそういう無知な新参者を教育して導かねばならないから大変だと思う。霊界の方でもあまりにも無知な新参者が殺到するので困っているのではないだろうか。シルバーバーチを始めとする霊界からの啓示においてはその霊的教育が一つの柱なのだろう。何しろ地球はビリから2番目に霊的進化の遅れた惑星のようだから。
ともあれ相手が横に来ただけで心が満たされるということは地上生活ではあり得ないことであり、地上の人間関係は本当は浅いものであろう。肉体が邪魔をして真の心の触れ合いは出来ないのである。地上の人間は本当の心の交流をしていない。皆、孤独なのである。
地上生活の特徴は昼夜があって毎日が一区切りになっていることであろう。色々あっても日が暮れるとひとまずは終わる。この世を去って霊界に行くとそういう区切りがなくなるので何かをやろうとすれば制限なくやれる。疲れたら休めばよい。反面,同種の苦しみがずっと続くことになる。地上では寝たら一応そこから離れることが出来るが地上を去ればそういう事は出来ない。
この世の生活の特徴は日々の生活が殆ど雑事で占められる事だ。雑事に追われて一日が終わる。雑事に追われて一生を過ごす者もいよう。人間は物質の世界の管理人なのでその重荷からは逃げられない。これは一種の罰である。
多くのものを持つほどその負担は大きくなる。故にこの世の生活においては必要最小限のものを持っておればよいという事になろう。人間にとって物質の世話をする事はこの世での義務であり、自らの修業なのである
あちらからのメッセージはテレパシーで飛んでくるのでそれを受信できる人間は少数かもしれない。守護霊からは頻繁に指導の為のテレパシーを受けている筈だが殆どの人は気が付かない。反面テレパシーの送信は誰でもが出来ていて自分の出した思念は地上界、霊界の隔てなしに飛んで行き誰かがそれをキャッチしているのである。思念による意志交換は物質の影響を受けないので自由自在である。時間の制約も受けない。
私たちが他の誰かに対し辛抱強く思念を送り続ければ相手は顕在意識で気付いていなくても潜在意識に蓄積され何らかの形で出てくる可能性があるのではないだろうか。守護霊がテレパシー(思念の照射)によって付いている人間を導こうとしていることを考えると理解しやすい。
それには回路が存在することが必要になるが今回のケースでは私の知らない間に回路が出来ていたということだろう。高峰さんの顔が浮かんできたけど私は高峰秀子さんという人をこれまでに映画や写真で見ていてそれは潜在意識に記憶されていたからすぐに誰かわかったのであり、全く知らない人の場合はわかりにくいと思う。しかし何らかのエネルギーは感知しているだろう。
犬の散歩コースに墓地があり犬の散歩の時にそこの道を歩くと必ず胸が重苦しくなりしばらく続く。何回通っても必ずそういう状態になるがつい忘れて通る事があり、ああまたやってしまったと思う。誰か地縛霊がいることは間違いないと思うがイメージは浮かんでこないので相手は知らない者なのだろう。相手にしないと離れていくが私のオーラが目立つから近づいてくるのかもしれない。長い間さ迷っているようであるが私は相手にしないことにしている。その重い感触が気味悪いが救済をしたほうがいいのかもしれない。
前に私が歯科医をしていた時に朝の瞑想の時にある人の顔が浮かんできたことがあった。
とにかく思念は生き物であり我々が考える以上に身の回りを無数の思念が飛び交っていると考えるべきであろう。遠隔ヒーリングの場合もヒーラーの思念を回路としてエネルギーの伝搬が行われる。ヒーラーが受ける人に意識を集中したら距離に関係なく思念の回路が出来るというわけである。受ける側が知らなくてもヒーリングのエネルギーは到達する。
近年、イスラム過激派や極右など過激な思想に染まる人間が増えているのもインターネットを通じて感化されていることが取り上げられているが、それ以前に誰かが(顕幽の別なく)意図的に思念を流す事によって知らない間に親和性を持つ者の潜在意識にその思想が蓄積されているということも考えられる。思念はエネルギーを持っているからであり、強い思念を照射すれば必ず目に見えないところで何らかの反応が起きていると思う。
シルバーバーチの霊訓に「一人一人の人間の思想には自分オリジナルなものは殆ど無く自分の思想と思っているものも実際は外部から入ってきたものである。人間は思念の受信機であり送信機である」という一節があるがその通りであろう。その中でも守護霊の思想が最も反映されているのだろう
高級霊の通信によると地上の生物創造の任務に当たっている高級霊は強い思念の照射によって地球上の生物を創造するという。日本神話には素戔嗚の尊など創造の神の話が出てくるが、まんざら作り話ではないということになる。とにかく思念は強い力を持っていて死後の世界ではそれを使って生活するようになる。集中力や意志の力を地上生活中に十分に養っておくことが大切だろう。
23日に犬を連れて(どこでも愛犬がお供する)城山という桜の名所に行ってみた。二十四の瞳のロケが行われた場所である。そこには高峰さんと生徒たちが電車ごっこをしているシーンの石碑が置かれている。その場所で瞑想してみると高峰さんからのテレパシーを感じ取ることが出来た。その人が実際にその場所で活躍した場所はその人のエネルギーが残っているので通じやすい。
高峰さんより
「その頃は私の人生の中で夢中で駆け抜けた時代でした。二十四の瞳は生涯を通して最も思い出に残る映画でした」。
上記のメッセージからわかるように要点だけが伝わることになる。あちらからのメッセージは地上の者同士の会話のようにはならない。理由は一つのイメージがエネルギーとしてある人物に投射された場合、それは言葉ではない。その内容が受信した者によって自動翻訳された形で出てくるので流暢さを欠くことになる。今のところ翻訳者が持つ霊的エネルギーが翻訳の原動力ではないかと感じている。
始めまして私は何々です。突然お電話を差し上げて云々などという表現は出てこないのである。文章として表すとぎこちない感じになるのは仕方がない。また細かい事は伝えようにも伝えられないということになる。伝えたいことの核心だけということになる。また翻訳者の思想も多少は紛れ込んでくるので100パーセント伝えるなどということは不可能なことである。またあちらも地上への意志の伝え方を練習する必要があるようである。全く関心がなければそういう気も起きないだろうし、伝え方など知らないということになる。妻の父は生前技術関係の仕事をしていてそういう事に関心が強かったようで通信の仕方は上手なようである。
自分の中に何か重苦しい塊のようなものがあると感じることはないだろうか?理由もなく常に何か重いものが存在しているように感じる。祈りや瞑想に入ると次第にそれが消えていき爽やかさに満たされる。
重く感じるもの、それは地上世界の波動である。それが肉体を通して入ってくる。
朝、テレビやインターネットを付けた途端に地上世界の重苦しいものがこれでもかというくらい入ってくる。何という事だろうと暗い気持ちにさせられるが祈りを始めるとそういうものはどこかに行っている。自分が祈りや瞑想によって次元の違う世界に移動するからだろう。
神の子として生きようと決意してもすぐにこの世の雑多なものが入り込んできて邪魔をする。それらのものは容赦なく侵入してくる。そういうものだとわかっているので自分の心を立て直す。すると元の清浄な状態に戻ることが出来る。
常にその繰り返しが行われるのがこの世の生活の特徴であろう。真理への理解が進むほど(悟る程)立て直しに時間がかからなくなる。侵入者はどこかに行っている。この地上界の環境は自分の心を鍛えるのに最適なのかもしれない。
雑多なものに捉われる時は視界が狭くなっている。そこから自分を解放すると視界が開けてくる。自分自身をしっかり確立しておけば侵入者の存在は小さくなる。自分がグラついていたりすれば大きくなる。
注釈
これはいつものインスピレーションではなく私自身の思いです。
そこは自分の思うようにならない世界だから思い通りにはならないよ。一人ひとりのエゴがあるからそれが衝突してしまう。だから色々な問題が起きるんだよ。ある程度ぶつかり合うのは避けられないから。でも人間はその中で揉まれて成長していくからね。
その人の事を思ってしてあげても分かってもらえないこともある。でもそれは自分の徳となって見えないところで積み上げられているから。後でこっちに来た時にそれがわかるよ。絶望するようなこともあるかもしれないけど、それはまだ小さな視野で見ているから。そっちの世界の視野で見ているからだよ。
お前は神を信じているのだから、そういう人間は今は色々あったとしても後で必ず喜びや幸せを味わうことが出来るよ。お前とこうして語り合えるのは私にとってとても幸せなことだ。普通はそんなことは出来ないんだけどね。
お前とはまた一緒に暮らすようになるからその時を楽しみにしているよ。それまでに悩んでいる人たちを少しでも助けてあげて。知らない人たちに教えてあげなさい。それがどれほど助けになることか。こちらから支援されているおかげでお前はそういうことが出来るのだから常に感謝の気持ちを忘れないように。
今日は何か通信がありそうだなと感じると私は一人になれる場所に移る。大抵は神棚のある部屋がその場になる。これまでもそこが通信を受ける場所になってきた。しかしリタイアの身とは言っても何者にも邪魔されずに自分一人の時間を持つのはそう簡単な事ではない。
望みどおりの環境が手に入るとこちらから相手に対して思念で語りかけるのである。それはこの世の人間同士と同じであり、違うのは言葉に出さないことだけである。
「おはよう!元気にしているかい?」という具合である。
この世とあちらの世界ではバイブレーションに違いがあるのでそれを調整する自動翻訳機のようなものがないと解読することが出来ない。あちらの人間は地上の人間の思念を理解出来るのにその逆が出来ないのである。
相手から伝わってきたものを全部記憶出来ればいいのだが最近は歳のせいか内容を忘れてしまう。大切なものを忘れてしまっては申し訳ないので筆記用具が必要になるというわけである。メガネも必需品である。
こういうものを受け取るには背後霊の力なしには出来るものではない。あちらで通信網を用意してくれていて彼らが必要と認めたものがこちらに授けられているようである。私の場合は何の縁もない相手から受け取ることは難しく何かの縁や繋がりが必要である。その意味においてもこちらは唯の霊界の道具なのである。この話は旧ページにも載せたかもしれない。
霊界通信によれば地上近くにそういうエージェントが待機していて地上の人間の能力の度合いをあらかじめ調査しているようである。この情報を受信するには誰がふさわしいかということを決めているらしい。大半の事はあちらでお膳立てをしてくれていて、最後にちょっとだけこちらの出番が来るようである。
人がこの世に生まれてくるのはこの地上世界でしか体験出来ないものがあるからに違いありません。地上世界は貴重な教訓を得る為の場と言えるでしょう。ある人にとっては修羅場のように感じるかもしれません。幸せを感じてもそれは一時的なものであり長続きはしません。アップダウンを繰り返し、揺さぶられながらも一歩一歩前進していくのがこの世における我々の姿なのでしょう。
霊が肉体に宿って過ごすという形態は宇宙生命系の中では低い進化のレベルなのかもしれません。シルバーバーチも地球は全宇宙の中でもビリから2番目に進化の遅れた惑星であると言っています。一旦肉体に宿ったら最後、肉体の寿命が尽きるまでこの地球の引力に引き付けられてしまうので逃げ出すことが出来ません。そこであらゆるものに否応なく付き合わされることになります。
流産は胎児に宿った霊がこの世に出てくるのが怖くなって脱出しようとして起きるという話を聞きます。最初は覚悟を決めてある母体に宿ったけれども出産が近づくとやっぱりこの世に生まれ出て苦労するのは嫌だというわけです。それ程この世は霊界に比べて大変な所なのでしょう。霊界人の中にも臆病な人がいるということです。
しかしこの地上世界で過ごす時間は永遠の人生という尺度で見れば一瞬ということになるでしょう。何十万年、何百万年、そして何億年も霊として宇宙での人生を過ごすと考えれば私の母のように100年生きたとしてもその期間は点のようなものでしょう。
それを考えたら今の人生などあっという間に終わってしまうのです。何時までも現在の問題に関わっている必要はないのです。関わろうにも関わり続けることは出来ないのです。