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    Author:大空澄人
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    人間は死なない

    2013.04.22 11:19|人間は永遠に生きる
    「人間は永遠に生きる」というカテゴリーを追加しました。私はインターネット以外にも自分と関わりのある人達に少しでも真実を知ってもらいたいという気持ちがあります。そこでささやかではありますが、誰にもわかりやすい小冊子を編集出来ればと考え、下書きを書いてみました。完成には程遠くあくまでも下書きです。迷信に縛られ、今まで霊的真理など考えたこともなかった人たちにとっては難しいかもしれませんが、例えその中の一つでも理解してもらえたらそれで良しとしなければいけません。

    人間は死なない
    人間は死にません。死のうにも死ねないのです。この事実を一人でも多くの人に知ってもらいたくて私はこの冊子を書くことにしました。私たちは死を乗り越えて永遠に生き続けるのです。これまでに死と呼ばれて恐れられ忌み嫌われてきたものは単なる肉体の死であり、人としての本体である霊は肉体の寿命が尽きればそこから離れてはるかに雄大なところで伸び伸びと暮らすようになるのです。死んだと思われている私たちの親や祖先は墓場や仏壇や寺のなかにいるのではありません。「千の風になって」の歌の様に束縛のない広大な世界で自由に楽しく暮らしているのです。彼らは事あるごとに私たちの傍にやってきては励ましたり慰めたりしてくれています。殆どの人にはそれがわかりませんがそれは無理もない事です。とにかく人は死なない、死のうにも死ねないという事実を知る事によって自分の人生の見方は根底から変わるのです。人はいかに生きるべきか、自ずから答えが導き出されてくるのです。

    人の寿命は決まっている
    にわかに信じられないかもしれませんが人の寿命は決まっています。誤差があっても数年位です。とにかく死にたくないと考えたところでどうしようもないのです。にわかに理解し難いかもしれませんが、人はこの世に生れ出てくる前に自分で寿命を決めてくるのです。しかし母親の胎内に宿ったら最後その記憶は消し去られてしまうのでそれが思い出せないのです。人はこの世で学ぶべきいくつかのテーマを決めてその人生にふさわしい両親のもとに生まれてきます。
    そして目的を達成するためには何年くらい必要かということを指導霊のもとで決めてきます。人は意味もなく生まれてくることはなく必ず何かの目的を持って生まれてきます。目的は一人ひとり違います。

    しかし、もし自分の寿命が分かってしまったら仕事や家事に打ち込めるでしょうか? それが分からない事に意味があるのです。弘法大師は自分の死期を自覚して入定したと言われています。しかし誰でも病気になって治る見込みがないことがわかれば、ほぼこの世を去る時期というのは悟ってきます。故に自分がこの世を去る時が来たら喜んで旅立っていけばいいのです。この世は苦しい修業の場、そこから卒業して新しい環境に旅立つ事が死なのです。本当は死ではなく新しい世界への誕生なのです。

    人の死に偶然はない

    2013.04.24 09:51|人間は永遠に生きる
    人の寿命は決まっているということを述べました。病気であろうと老衰であろうと事故死であろうと大体人はその時が来ればこの世を去ります。事故で死ぬのは偶然じゃないかと思うでしょう。しかし本当はこの宇宙に偶然の出来事は存在しないのです。偶然と見えることも実は必然なのです。例えば事故に会う場合、自分の持っている因子がその事故が起きる現場へと引き寄せられることになるのです。説明が難しいですが全宇宙は原因と結果の法則によって支配されています。星の軌道や巡りくる四季、潮の干満など、少しの間違いもなく営まれています。人の行動も自分で勝手にしているようで、実はこの法則の通りに動かされています。それ以外の事は起きないのです。この話は難しいかもしれないのでこの辺にして、次回からは実際に死んだらどういうことが起きているのか、身近なところでお通夜から葬儀その後の事について考えてみることにします。

    死の前後に起きていること

    2013.05.06 11:05|人間は永遠に生きる
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    家族の誰かが亡くなって葬儀やお通夜を体験したことがないという人はまずいないと思います。そういう時、死んでいく人達の身の上には実際にどういうことが起きているのか、自分の霊的な体験と最近のスピリチュアリズムの考え方を基に検証してみたいと思います。

     

    数年前に義父と叔父が他界しました。2人とも今までに何度もこのページに登場していて貴重なメッセージを貰っています。そしてそれは今も続いています。ここでは彼らの事例を中心に挙げてみたいと思います。

     

    亡くなる前日または前々日からあるいはもっと前からこの世を去るにあたって親族のところに挨拶にきます。夢の中に現れてくることも多いかもしれません。毎日祈りや瞑想をしている人であればその場に現れるかもしれません。自分の死期を察してお別れの挨拶にくるのです。そこでは彼らは「これから旅立つけど今までありがとう、これまでにしてくれたことに心から感謝しているよ」というような内容のメッセージを送っているようです。一度私は叔母さんがなくなる前に足元にしがみ付かれてびっくりしたことがありました。それはこのブログの2012年6月19日の体験集「夏の世の出来事」という記事のなかで詳しく説明しています。

     

    最近では殆どの人が自宅ではなく病院で亡くなります。私は叔父の遺体を病院から自宅に搬送車で運ぶのに同乗していましたが、その時はまさに叔父が一緒に同乗者として乗っているという感じがしました。その時車内では兄弟同士で葬儀の打ち合わせをしていました。当然話の内容は叔父に伝わっています。しかし肉体から抜け出たばかりの霊体は意識がまだぼんやりしているので詳細なことまでは分からなかったでしょう。

     

    自宅に連れて帰ってからお通夜までは全く何の反応もありませんでした。これは義父の場合も同様です。肉体から抜け出たあとは暫くの間眠りにつくようです。私の今までに見た範囲ではお通夜の事は覚えていないケースが多いのではないかと思います。しかし例外も数多くあることでしょう。

     

     病気で長い間苦しんできた人は休養の為に自然に眠りにつきます。事故死の場合もそのショックを和らげるための眠りの時間があるでしょう。この眠りの時間の長短は本人がいかに霊的に覚醒しているかによって決まります。霊的真理をよく理解し悟っている人の場合は死後直ちに目覚めが来るようですし、自分が肉体から離れていく様子さえも分かるようです。

     

    病院という所は実はとても霊的な所なのです。人が亡くなる時には肉体と霊体を結んでいるシルバーコードが切れます。それがスムースに切れるように霊界の医者やその人の親や霊的繋がりのある人達(全てこの世の人ではない)がその場で手助けをします。丁度子供がこの世に生れ出てくるのと逆の現象が起きているわけです(出産の時に臍の緒を切るのと同じ)。また手術などの時は必ず親やその他の人が来て見守っています。私の時も娘の時も霊界の父が傍に来てくれてじっと見守ってくれていました。医者がご臨終ですと宣言する時には実際には霊界からの医者や親たちもその場に同席しているということになるのです。

     

    この世の人は悲しみ、あちらの世界の人からはよく帰ってきたねと祝福を受けるという正反対のことが起きていることになります。最近はお産も病院でする人が殆どです。寺院や葬儀場など宗教的行事の場ではなく実際は病院においてこの世とあの世の行き来が行われていることになります。ですから病院はそういう意味で霊的な場所ということになりますが病院関係者も家族も社会もあまりそういう自覚はないようです。


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    葬儀から49日

    2013.05.18 16:38|人間は永遠に生きる
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    5.葬儀の時には何が起きているのか

    当人が眠っている場合は盛大に葬儀をしても何も知らないということになります。そういう事も全て天地自然の法則(神の摂理)によって導かれ、自然にそういう状態になります。人がどんな状態であろうとそこには必ずこの天地自然の法則が働いているのです。

     

    葬儀の時には私の体験では半数くらいは当人が先に他界している自分の親や祖父や祖母に付き添われて葬儀を見に来ているようです。大抵の人が祭壇の前で参列者にお礼の挨拶をしています。その場で私は当人からのメッセージを受け取ることもあります。当人(死者)が最も関心のある事は自分を愛し、愛していた人です。それ以外の人にはあまり関心がないようです。義理で葬儀に来ている人には失礼ながらあまり興味がないのです。今までに見た範囲ではどうも彼らは葬儀に来てもしばらくするといなくなるようです。葬儀を見学し、親しい人に対面して一定時間過ごしたらさっさとどこかへ行ってしまうようです。斎場にも行かないのかそこで何らかの反応があった事はありません。それから最近は火葬が殆どですが死後最低2日間は置いた方がいいのです。あまり急いで火葬にすると霊体の一部が残っていることがありダメージを与えることがあるのです。

     

    世間では葬儀にかなりのお金を使います。その費用は半端なものではありません。世間では宗教的な儀式をすることは死者を導きより良い所へ連れて行ってもらえるというような認識があるのでしょうか? それともそれをやらなかったら死者は成仏できないのでしょうか?真実を言えばそうではないのです。人は次の世でどのレベルに進むかということはすでにその時点で決まってしまっているからです。それまでの人生でその人の積み上げたものが行き着く場所を自動的に決めるのです。死は唯、肉体が無くなっただけの状態でありその人間の本質は何一つ変わっていないのです。急に仏様のようになるのではありません。人は死後長い年月をかけて成長していくのです。人生は永遠に続くのです。

     

    ですから自分が進んで行く死後の世界はこの世で積み上げた世界の延長であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。その辺のところは法則によって不公平なく決まってしまうのです。それは絶対に間違えることはありません。その法則の働きこそが神なのです。神は法則で宇宙のすべてのものを支配しているのです。

     

    その神の働きに対して何らかの影響を及ぼす力を持ったものは全宇宙に存在しないのです。この辺のところを正しく理解することが大切です。僧侶が何十人集まってお経を唱えようが、豪勢な儀式をしようが神の働きには指一本ふれることは出来ません。

     

    またお経自体が特別な力を持っているわけではないのです。もしお経が特別な力を持っていたとしたらそれを唱えれば自分の犯した罪が消えるかもしれません。またお経を唱えれば問題が解決するかもしれません。しかしそういうことは実際にはありません。魔法の言葉のようなものがありそれを唱えたら自分の望みが叶うというようなものは存在しません。もしそういうことが許されるならば全宇宙をコントロールしている秩序が根底から崩れてしまいます。人間もその他のものも神の法則を超えては何事も成し得ないのです。

    お経やその他の祈りの言葉はその言葉自体が霊界に届くのではなくその人の心そのものが届くのです。ですから人の心の内容をそれに乗せて届けると考えたほうがいいと思います。霊界では言葉は必要なく心の内容が一瞬に伝達されるのです。この世とは意思伝達の方法が違うのです。この世と霊界とでは相当に違いがあるのです

    戒名というものがあり院号を付ければ高額なものになっているようです。それは意味があるのでしょうか? もし院号付きの高額な戒名を付ければ死者は導かれてあちらの世でいい所へ行けるのでしょうか?これも先ほどの例から自ずと結論が見えると思います。本来仏教にはそういうものはありませんでした。仏教が中国、韓国をわたって日本に伝来する間に儒教やその他の思想の影響を受けた結果生まれたのです。戒名はこの世の人間の価値観から出来たものであり、あくまでも物質的なものです。物質的なものはあちらの世界に対して何一つ働きかける力はないのです。どれほど立派な墓を建てようが高価な仏壇を作ろうがあちらの世に対して働きかける力はないのです。あちらに通じるものは心だけです。心があちらの世界では実体があり、物質は影に過ぎないのです。この世とは逆になっているので価値観が違うのです。

     

    死後の世界に進んで行った人達が一番嬉しいものは何でしょうか? それは愛です。家族や親しかった人達が自分に向けてくれる“愛”なのです。第三者である宗教者が儀式をしてもそれはあくまでも儀式に過ぎません。遺族や親友の愛に勝るものはないのです。葬儀とはこの世の卒業式であり本当は祝福すべきものなのです。苦しいこの世の修業から解放されたのですから。稀に自分が死んだことがわからない人がいます。そういう人にとって自分の葬儀を見ることは状況を正しく理解させるということで意味があるでしょう。きちんと理解が出来ていれば葬儀すら必要がないのです。葬儀は殆どがこの世の人達に向けたものです。

     

    5.死者は49日の間は家にいるのか

    彼らは自由にどこにでも行けます。外国にだってすぐに行けます。肉体から離れたら束縛がなくなるのです。肉体に宿っていたら移動の手段が必要になるし交通費もかかります。肉体を離れて霊になると一切そういうものは必要がありません。思っただけで行きたい場所に移動が出来るのです。我々が夢の中でどこか遠い所に行っているのと同じ原理が働きます。

     

    ずっと家にいても誰も自分の存在を分かってくれないし家族の心も丸見えなので本心が分かってしまいます。自分に好意的でなかったり悪口を言っているのを見ると居たたまれなくなってしまいます。ずっと家にいるという人は稀でしょう。誰も話し相手になってくれないし空しさが募るだけです。彼らは49日という期間に関係なく何時でも家に来られるし自由にどこにでも行けるのです。中陰の供養の時は殆ど来て様子を見ています。中には一緒に座って儀式に参加している人もいます。家族だけの小さな催しで嫌いな人もいないしリラックスしているようです。知らない人が大勢来る大掛かりな葬儀より家族の愛のこもった催しは嬉しいようです。死後は肉体が無くなり霊感が鋭くなるので物を言わなくても人間が何を考えているかすぐにわかってしまうのです。誰もが霊能力者になるというわけです。例えば少し精神統一をして亡くなった人(愛でつながっていた人)の写真を見ながら心の中で呼びかけてみてください。それは必ず届いています。

    霊と肉体、審判

    2013.05.26 17:34|人間は永遠に生きる
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    6.霊と肉体
    人間の体は実は何重もの構造になっているのです。我々は肉眼で人の体を見ますが肉体の部分しか見えないのです。時々オーラが見える人がいますがそれは何重かに重なり合ったものの一部が見えているのです。肉体とそっくりのもう一つの体があってそれが肉体に生命力を与えているのですがそれが霊体というものです。死ねば肉体から離れて自由に活動するようになるのです。今までに蓄積してきたものは全部霊体のなかに収められています。学んだことは全て記憶されています。実は脳は霊の指令を受ける受信機であり人体も脳も霊によって操られる機械なのです。

    我々は実は眠っている時、霊体は肉体から離れて方々へ旅行しているのです。生きている時から死後に暮らす場所を何度も訪れているのですが覚えていないのです。その時指導霊に指導を受けたりあちこち案内されているのです。殆どの人はすでに受け入れ先は決まっているので葬儀の時に良い所に行けるようにと儀式をしても関係がないのです。夢の場合はシルバーコードが繋がっているので目が覚めれば肉体に戻ってきますが、死ねばシルバーコードが切れるので二度と肉体には戻ってきません。

    霊体はとにかく肉体にそっくりです。というのも霊体に合わせて肉体が作られていくからです。私たちの本体は肉体ではなく霊体なのです。今までに病気であったり身体的ハンディがあった人も霊体になるときれいに元通りの体になります。高齢者の人も若かった頃のはつらつとした容姿に戻ります。重苦しかった肉体を離れて霊体になるととにかく軽やかで爽快な気分になってきます。もはや今まで自分に制限を課していたものが取れて自由な世界に誕生したのです。
    こういう状態になる事を人々は不幸な事と嘆き、極端に恐れているのですがそれは逆です。それは人がこの地上生活を終え一段高い所へ向けて飛び立とうとしている姿なのです。

    これまで地上の世界と自分を繋いでいた肉体を捨てて霊体になったらいくら家族を呼んでも肩を叩いても誰も気が付いてくれません。その場に霊感のある人がいれば少しは分かってくれますが、最早、自分は次元の違う世界にいるので地上の人達とは正常なコミュニケーションは取れません。結局そういうところでうろうろしても仕方がないことが分かるようになります。そうなった時に指導霊が現れてその人の落ち着き先へ案内します。そこで新たな生活が始まるというわけです。しいて言えばその状態が昔から言われてきた「成仏する」という状態と考えていいでしょう。それは49日とか決まった期間ではなく人によってまちまちです。数日で成仏状態になる人も結構いると思います。

    死後にどうなるのか知っていたら早く新しい環境に馴染めるし、何も知らなかったら戸惑うので慣れるまでに時間がかかります。知らなかったら迷信に振り回されるだけになり知っていたらすぐに状況を理解できます。そこで生前から霊的真理を正しく理解しておくことが極めて重要になります。

    7.霊界の審判
    人にもよりますが大体死後数日以内に自分が人生でした行いを指導霊の元で見せられます。次々とスクリーンに現れる自分の行いが果たしてどういう事だったのかが分かります。肉体と離れたら人は煩悩が自然に取れていきます。誰でもこの世ではわがままを押し通したり、良くない事もしているものです。その時点では見えなかったものがはっきりと見えるようになります。そして自分がした事を悔やむようになります。どうしてあんなことをしてしまったのだろう、あの人に謝らなければ気が済まないと思うようになるのです。

    極端な例として人を苦しめた独裁者はそれを見た途端、自分がやったことの重大さに驚愕して発狂してしまうことがあります。その苦しみは終わるという事がありません。苦しみから逃れる方法はもう一度この世に戻るしかないことが分かってきます。そこでこの世にもう一度生まれ変わって償いをすることを決心し、あまり間をおかずにこの世に生まれ変わってきます。そして精神に異常を来したまま生まれてくることになり、自分が人に与えた苦しみを自分が味わうことによって償いをすることになるのです。そういう例は極めて稀ですがそのようにこの世でひどい事をすると必ず死後の世界ではその罰として償いをしなければならないのです。この世だけ見ていたらわからないわけです。世間はその人はひどい事を一杯したのに一生何もなかったではないか、悪い事はやり得だなと思うかもしれませんが、神は絶対に見過ごしてはくれません。悪い事をすれば必ず懲罰が下ります。

    生前に良い事をした人は良い所に行き、悪い事をした人は悪い所へ行きます。自分のしたことの結果が正確に死後の世界の落ち着き先を決めるというわけです。結局自分の人生は自分が作っているのです。それはこの世においても同様ですがこの世は嘘やごまかしが効きます。ところがあちらに行くと一切嘘やごまかしは効きません。自分の本質が誰の目からも丸見えになってしまうのでどうしようもないのです。この世での社会的地位や権力は何の意味も持ちません。どれだけ心が成長しているか、人や世の中のために尽くしてきたかということがあちらでは意味を持ってくるのです。それは心の財産であり、お金、名誉、権力その他のものはあちらでは無力なのです。俺は偉い人間だったと威張ってみても誰も相手にしてくれないのです。

    霊界への旅立ち

    2013.06.07 09:08|人間は永遠に生きる
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    8.霊界への旅立ち
    恐れられている死というものは実際は新しい世界への誕生である事を述べました。新しい世界とは一体どういう世界でしょうか?霊界と言う言葉はすでに知られていると思いますがいきなり霊界に進んで行く人は稀です。何故なら霊界はある程度以上悟った人でなければその環境に順応することが出来ないのです。この世の煩悩を卒業し霊的に成長した人でないとそこで生活することは苦痛になってくるのです。そこでその一つ下の段階の幽界というところに行きます。

    幽界は何から何までこの世とそっくり、この世にあるものは殆ど何でもあります。幽界はこの世の垢を落とすところです。ですから中には自分が死んだことを自覚できない人たちがいるのです。食べ物や飲み物も揃っていてあまりにこの世とそっくりなので自分が死んだことに気が付かない人も多いのです。仕事をしなくていい、お金も要らない、自分の好みの家もありそこでゆっくり過ごす事が出来ます。

    確かに幽界での生活は快適ですが努力しなくても何でも手に入るような環境にいると人は退屈になってしまうのです。人は誰にも向上心があり現状に満足できなくなってくるのです。あたかも極楽のように思えた場所もしだいにつまらなくなってきます。そうなると次の上のレベル、つまり霊界に自動的に入っていくようになります。霊界には無数のレベルがあり、それがお互いに重なり合っています。人は向上するたびに上のレベルに上がっていきます。

    霊界の上の方は人間の想像を超えた世界であり、住民は互いに助け合い、愛と豊かさと喜びのなかで暮らすようになります。あるいは私たちの祖先のなかにはそういうところで暮らしている人もいるかもしれません。通常そういうところにいけるレベルに達するには長い年月を要します。観音様とかその他の仏様と言われるものはそういうところの住民を意味するのかもしれませんが、仏様は人間の想像の産物であり実際にいるわけではありません。それからも進歩というものは際限なく続き、もうこれで終わりという終着駅はありません。全宇宙のものは常に進化向上を目指して成長するように方向付けされているのです。

    9.要注意の幽界の最下層
    一般の善良な人は普通に幽界に進んで行きますが、中には幽界の最下層でうろうろする人がいます。それがいわゆる不成仏霊、又の名を地縛霊といいます。彼らはこの世に未練を残し過ぎたためにすんなり上の世界に行けないのです。日ごろから意地悪、欲深、わがままで人の迷惑を考えなかったような人間はそこで引っかかってしまうのです。金の亡者であったような人は自分の家の金庫の前で金庫の見張りをしたり死んでも金のことが頭から抜けないのです。

    一方殺人や凶悪犯罪に手を染め、死んでも反省することを知らない人間は地上をうろつき同じような思いを抱いた人間に憑依します。取り憑くという言葉のほうが分かり易いでしょうか。通り魔連続殺人事件やこの間の尼崎殺人事件、そして世に知られたオーム真理教事件などはこの種の地縛霊が事件の犯人に憑依し、その人間の精神を支配して様々な事件を起こさせたのではないかと思います。ですから日ごろから人を恨んだり悪知恵を働かせているような人間はこの種の地縛霊のえじきにされてしまうのです。それは自分がそういう邪悪な霊を呼び寄せているのです。彼らはそういう人間を探して取り憑き犯罪をそそのかし、その結果取り憑かれた人間は心身ともボロボロになってしまうのです。

    日頃から清く正しく生きているような人にはそういう悪霊は寄り付くことができません。日頃の心がけがいかに大切かということです。そういう悪霊の住んでいる領域は幽界の一番下の層でありこの世の人間社会よりレベルが低いところです。地獄というところがあるとしたら正にそこが地獄でしょう。そこの住民達は愛に乏しく常に争い、傷つけ合い、だまし合い、一時として平和な時はありません。仏教の世界で言われているような地獄は実際にはありません。閻魔大王も実際にはいません。あまり良いこともしなかったけど悪い事もしなかったという、平凡に人生を過ごしたような人はそういうところには行きません。

    先祖供養

    2013.06.11 09:05|人間は永遠に生きる
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    先祖に対してずっと供養を続けて祀らなければ、祟ったり家の中に悪い事が起きるなどと考える人もいるようですがそんなことはありません。彼らは法要をするしないに関係なく帰りたければいつでも帰ることが出来ます。時々帰ってきているはずですが家族は誰も気が付かないだけなのです。それも家族との間に愛が無ければ帰ってくることはないでしょう。家や土地にもすでに興味はありません。

    私の家を例にとってみると私の祖父は今までに一度も現れたことがありません。私は子供の頃よく祖父にたてついて叱られたものです。死んだらお前に取り憑いてやる(今思えば認知症になっていた)とまで言われました。子供心に取り憑かれたら恐ろしいなと思っていましたが、全くそういうことはありませんでした。一方祖母はたまに現れますが、無言で唯そこにいるだけという雰囲気です。前に私の娘はドアのところからこちらを見ていた祖母を目撃しています。これらの事を考えてみるとその家の先祖がいつまでも家や家族のことにこだわっているということは極めて稀なことではないかと思います。今そこで生活しているあなた達(私達)が良いと思うようにすればよろしいという雰囲気です。

    私のこれまでの人生を振り返ってみるとかつての小学校が廃校になり、そこは現在、公民館になって有効に活用されています。それを見てああ、昔は小学校があったな、懐かしかったなと思いますが、こんな事をして許せないなどとは思いません。むしろ思い出は思い出として取っておいて小学校の後が現在は有効に利用されていることに満足感を覚えます。50年少し前の事でもそうなのですから何百年も前にこの世を去った先祖が家や土地の事で不満を持ったりすることは考えられないことです。旧ページの死後の世界愛の心という題で義父の通信を載せたものがありますのでご紹介します。

    さらに遠い先祖はすでに違う世界にいてこの世の事は記憶も薄れ、関心がなくなっているのです。先祖も私達も一時期を地上の世界で暮らしますがその地上生活が同じ場所であったということで、それは永遠の人生という視点から眺めると極めて短い期間です。肉体的な家系というものは遺伝していきますが、各個人に宿っている霊は親子といえども実際は別のところから来ているのです。

    ですから先祖に対していつまでも法要をしたり供養を続けないと罰が当たるなどと考える必要はないのです。あちらはあちらで忙しくしているのですからそういう暇があったら自分自身の向上を考えるべきでしょう。それが本当の先祖供養というものでしょう。他界した人達は霊界主導であちらのルールで進歩成長していきますから私たちに出来ることは殆どないのです。考えてみればわかるように霊界に行った人達は我々よりはるかに進歩しているのです。地上世界は一番低いところです。高い所にいる世界の人たちに対してこちらの世界から指導や導きのようなものが出来るわけはないのです。 小学生が大人を指導することは出来ません。

    良く考えてみればそれはおかしなことだと思うのが自然でしょう。実際は私の父のケースのように地上の親族はあちらから指導されているのです。あまりこういうことを言えば熱心に先祖供養を勤めている人達からお叱りを受けるかもしれませんが霊的事実、生命の進化向上という観点から見ればそういうことになるのです。仏壇がある家庭が多いと思いますが、そこで手を合わせる場合は先祖に対して感謝の気持ちを表すことで十分だと思います。読経をするならばその中に感謝の念を込めることでしょう。

    我々がもし先祖の誰かを救済出来るとしたら自分の死を自覚できない人がいる場合です(それは先祖というより最近他界した人)。そういう人に愛の念を送ったり、霊的真理を語って聞かせることくらいでしょう。彼らは一時的にさまよっていたとしても時期が来れば指導霊に導かれていくようになります。結局あちらの事がわかっていない私達が出る幕は殆どないのです。

    死後かなり時間が経過すると地上の血縁よりも霊的な縁のほうが強いつながりとして現れてきます。霊的な縁はこの世にいる間はわからないようになっているのです。近代の心霊科学で類魂という魂のファミリーがあることがわかっています。私たちは地上で生活しながらもそこから支援を受けていますが気が付きません。一番私たちを親身になって支援してくれているのが守護霊ということになりますが、それは類魂のメンバーの一人です。あくまでも地上の血縁は長続きしないのです。夫婦といえどもお互いに愛がなければ霊界ではバラバラになってしまいます。

    日本では仏教と言えば先祖供養ということになっています。本来の釈迦の仏教は人の生きる道を教えるものでしたが中国や韓国を渡って日本に伝来する間に儒教の影響を受けて独特なものになりました。日本に古来からあった祖霊信仰とも結びついて奇形的な仏教になってしまったのです。大半の人は仏教について深く考える事もなく、昔から続いてきた因襲を守り続け、それが仏教だと思っているようです。

    神と宗教

    2013.06.12 09:23|人間は永遠に生きる
     

    世界にはキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など様々な宗教がありますがこれらの大元は同じものです。それはこの大宇宙を創造、支配している原理であり、言い方を変えれば大自然の摂理なのです。天地自然の法則、神の法則と言い換えてもいいでしょう。その法則をインスピレーションを通して感じ取ったものをそれぞれの開祖が独自に体系付けたものが今地上にある宗教ということになります。

     

    それはそれぞれに違う事を教えているように見えますが根本は共通です。民族の気質や気候条件によって宗教の個性というものが出来上がっています。昔から宗教の対立が戦争に発展してきましたが、本当は違う事を教えているわけではないのです。

     

    仏教が発生したのは2500年前、キリスト教は2000年前、イスラム教はキリスト教の少し後です。その時代から比べて人類はどれ程進歩したでしょうか。釈迦がいた頃は教えを書き記す紙さえありませんでした。それよりさらに後の時代でさえ人は地球を中心に他の天体が回っていると思っていたし、船でどこまでも航海を続けていけば地の果てに到着し、そこは滝になっていて落ちてしまうと考えていました。

     

    今や地球人類は宇宙船を使って他の天体にまで到達できるようになりました。乗り物が発明され人は地球上をどこへでも移動できるようになりました。インターネットや携帯電話が出来て世界の誰とでも瞬時に情報交換が出来るようになりました。医療技術も飛躍的に進歩し昔は不治の病と言われたものでも治せるようになりました。我々は今そういう時代にこの地球上で生活しているのです。

     

    そこで今ある宗教というものを振り返ってみれば仏教にしろキリスト教にせよその当時から進歩というものが止まってしまっているのです。その宗教が説いているものは今でも間違っているわけではありません。しかし人類の知識の量と質はその宗教が出来た当時に比べて飛躍的に進歩しています。今の人類の求めるものははるかに高度なものになっているわけです。何かの疑問に対し小学生なら満足できるようなレベルの回答でも大人はそれでは満足しません。いわゆる伝統宗教というものはその伝統と格式にこだわるあまり新しい知識の吸収を拒んできたのです。

     

    死後人間はどうなるのか? 人は何のためにこの世に生まれてくるのか? なぜ人生に苦しみがあるのか?それに的確に答えられる宗教はありません。宗教も人類の進歩とともに進歩していかなければならないのです。基本は正しい事を言っているのですからその上に新しい知識を付加していかなければ時代から取り残されてしまうのです。

     

    実は20世紀に入ってから霊界から人類の意識改革の為に地上の世界に向けて啓示が降ろされるようになってきました。それは霊界の上層部で綿密な計画が立てられた大掛かりなものです。すでにそれらは書籍として発売されその気になれば誰でも読むことができます。「シルバーバーチの霊訓」はその代表的なものです。その特徴はこれまでと違って一人の教祖が現れて教えを説くのではなく私達一人ひとりに直接もたらされるようになっています。

    魂に受け入れ準備が出来た人から一人ずつ真実に目覚めるようになっています。目覚めてくれば自然にそういう書物に巡り合うように導かれていきます。また霊感のある人には直接啓示が入ってきます。一人一人が進化向上をしそれが世界規模で広がり全人類が成長、進歩していくように計画が立てられています。今やその教えは静かに世界中に広まりつつあります。決して目立つことなく少しずつではありますが確実に人の心の中に育ってきつつあるのです。

     

    このコラムはこの霊界からの教えを基にして私自身の人生体験を通じて実証された誰にも分かり易いものを取り上げて編集してみました。ここに書かれていることはその教えのほんの一部にすぎません。生前のお釈迦様や弘法大師の教えは絶対的なものでしょうか? 残念ながらそうではありません。彼らが活躍した時代においては先鋭的で偉大な人間でした。しかし彼らが活躍した時代の人々の知識のレベルに相当したものでした。

     

    時代が進んで人間が進歩してくるとさらに進んだものが求められるようになります。すると新しい時代に応じた知識が霊界から啓示されるようになります。それはその時代の人々の理解力より少し進んだものになります。進み過ぎたものは人間には理解できないのです。

     

    例えば釈迦や弘法大師の霊はこの世に再生していなければ霊界にいるでしょう。彼らは現在、霊界で当時に比べて飛躍的に進歩しているはずです。彼らは地上の人達が今も尚、当時の姿の自分を崇拝しているのを見てどう感じるでしょうか? いい加減で真実に気づいてくれよと思っていないでしょうか。

     

    人類は永遠に進化向上していきます。それは終着駅のないものです。これで終わりというものはありません。宇宙は際限のない進化向上を目指しているからです。その機構を作ったものが神ということになります。神とは人間の理解力をはるかに超えた無限の叡智です。目には見えず触れも出来ず、すべてのものに顕現し、人間の一つの細胞から巨大な天体まで、そして全宇宙のものを支配、統制しているのです。そして私たちが真に信仰の対象とすべきものは個々の偉人ではなく、ここに表現されている存在であり、それが唯一神と呼べるものなのです。

    良心の声が神の声

    2013.06.17 13:50|人間は永遠に生きる
     


    私達には一人残らず「良心」という神のモニターが植えつけられています。人はその良心の声に従って生きるべきなのです。人生は絶えず右か左かを判断しなければいけません。その連続ですが、人は誰でも良心の声がこちらが正しいと言っているのにその場を取り繕う為に思わずその逆をやってしまうことがあると思います。そういうことをすると後で必ず後悔する時が来ます。最後の審判の場面で自分が為すべきことをしなかったことがわかり、自責の念にかられて苦しまねばなりません。人は良心の声に従って生きていれば決して罰せられることはありません。良心の声こそが神の声なのです。

     

    様々な宗教では教義というものがあり何やら難しい事が書かれています。仏教書を読んでも抽象的で分かりにくく、難解な事がさも高尚な事であるかのように表現されています。そういうことを知識で知っていても実践しなければ何の意味もありません。どの宗教でも説いている根本は同じです。

     

    自分以外の誰かの為に自分を生かすこと。困っている人がいたら自分の出来る範囲で助けること。

     

    エッセンスは単純明快です。これだけでいいのです。

    仏教ではすべての人に仏性が備わっていると説きます。神性と呼んでも同じです。この苦しみの多い人生を通じて自分の中の神性に目覚めることが私たちの人生の目的なのです。具体的には「良心の声に従い自分以外の誰かの為に自分を生かすこと」を日常生活で実践していけばいいのです。


    何故苦しみがあるのか

    2013.06.21 15:36|人間は永遠に生きる

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    誰の人生も苦しみの多いものです。楽しい事や嬉しい事ばかりの人生であればいいのにと思うのが人情ですがそうはいきません。人は神の配慮によって苦しみを体験しそれを乗り越えて行くことによって成長するようになっているのです。歳を取ったから解放されるということもなく、何の悩みも苦しみもない人生はあり得ないのです。本当はこの世に誕生する前からどういう苦しみを体験するかということを自分で決めて承知の上でこの世に生まれてくるのです。そういう人生のコースを辿ることを指導霊のもとで決め、その人生を送るにふさわしい両親のもとで生まれてきます。生まれる国や場所も当然考慮に入れられています。日本人であったから再び日本人として誕生してくるということもありません。

    過去世において何か神の法則に逆らう事をしていた場合、そのカルマ(業)の清算がこの世でしか出来ないことが分かると自発的に再生(生まれ変わり)を望むようになるのです。勿論その事は今この世で生きている間は記憶に上って来ないので何故自分はこういう事で苦しまなければならないのだろうと疑問に思うのです。今地球上で生活している人の中でカルマの清算を必要としていない人はいないでしょう。特殊な使命を持っている場合は例外として何のカルマもなければわざわざこの地上世界に誕生してくることはないと思います。

    このように私達には苦しみの原因は容易にはわかりませんが何の意味もなく苦しみが生じる事はありません。もちろん明らかに自らの行為が招いたものであると分かるものもあるでしょう。深遠な神の法則が働いた結果、さらなる成長の為に苦しみを体験する必要があるから今の苦しみがあると捉えるべきでしょう。人は時間の経過とともにいつしか苦しみを苦しみと感じなくなってくるものです。そうありたいと思います。

    お釈迦様は苦しみの種類を分類し、根本的にそれらは人の執着の心から生まれているとして執着を絶つための方法を考えたようで、それが仏教の骨格になっているようです。すべてのものは実体がなく、移り変わっていくのでそういうものに執着しても仕方がありませんという論法のように思えます。

    しかしそういう論法にこだわり過ぎると何か新しいものを生み出そうという気力が失せてしまいます。新たな発明や発見は飽くなき追求心や情熱なくしては生まれません。またある程度の競争心も発奮材料として必要でしょう。時には衝突や闘争も生まれますがこれは人類がまだ成長途上で未熟ゆえの事でしょう。

    般若心経では無という文句がくどいほど繰り返されます。そんなに何もないんだったら生きていたって仕方がないじゃない? 人生にはあらゆるチャレンジすべきものが用意されていてそれらは成長のための材料だと思います。それらも本当は無いのです。人間が執着するからそういうものがあるように思えるだけなのだという態度は逃避的に思えてしまうのです。

    それは宇宙の深淵の声であり、極めて高度なものだから凡人には容易に理解できないのですよと言ってしまうと、なるほどと思う人もいるかもしれませんが本心から理解できないものが人の心を深く捉えることは無理があると思います。確かに般若心経には唱えていると鎮静作用はありますが最初から般若心経ありきで絶対的なものとして考えるべきではないと思います。

    こういえば熱心な仏教徒からお叱りを受けるかもしれませんが、それは本当にお釈迦様の言葉なのだろうか? お釈迦様の死後400年経って弟子たちがその思想をまとめ上げたというがそれは事実なのだろうか?内なる自分の心から湧き出る素直な疑問があるはずです。何事も先入観に支配されることなく疑ってかかることが人の進歩につながると思うのです。

    原因と結果の法則

    2013.07.04 15:15|人間は永遠に生きる
     

    私達が日常する行為や心に思う事、すべてに原因と結果の法則が絡んできます。文字通り良い事をすればよい結果を招き、悪い事をすれば悪い結果を招きます。

    これは実はこの世に生きている間だけでなく死後の世界も永遠に続きます。この原因と結果の法則は我々がした事を何一つ見逃してはくれないのです。

     

    その働きは電子計算機のように正確で絶対に間違う事はありません。人間の目はごまかせても神は絶対に見逃してはくれません。ある人の犯した過ちの清算が生きている内に来なかったとしたら、必ず死後清算しなくてはならなくなります。逆に善行を積めば必ずそのご褒美を授かります。この世にいる間になければ死後に授かります。このように人生の全てにわたって神の法則が支配していることを知るならば悪い事は出来るものではありません。悪い事をすれば必ず罰せられることが分かるからです。

     

    自分が今体験していることは何と理不尽なことだろうと思う事が誰でもあるはずです。世の中不公平じゃないかと文句を言いたくなるものです。しかし物事を長期で見れば完璧な公平が保たれているのです。私たちはごく短期的な視野からしか物事を見ることができません。現在苦しみの真っただ中にいるなら必ずいつか幸せに浸れる時が来ます。長期で見れば完璧にバランスが取れているのです。

     

    私は聖書はあまり読みませんが確か次のようなイエスの言葉があったと思います。

     

    「悲しむものたちは幸いです。その人たちは慰められるから」

     

    この言葉は法則の働きを表現したものではないかと思います。

     

    神は人間だけではなく宇宙の全てのものをこの原因と結果の法則で支配、統制しているのです。原因があればその結果が生まれ、それが新たな原因となって次の結果が生まれるという営みが永遠に続いていきます。法則の働きが神の働きなのです。私たちはどうあがいてもこの法則に逆らうことは出来ないのです。

    この原因と結果の法則を根底にして私たちの人生は展開していきます。家族や団体や国家にもこの法則が働きます。

     

    そしてそれは機械的かつ自動的に作動するので昔から「結局この世には神も仏もいないではないか」という嘆きが繰り返されてきたと思います。それは当たっていると思います。人間が考えるような神様や仏様は実際にはいないのです。実際にあるのはこの正確無比で、すべてに渡って公平が保たれた法則であり、ある時はそれを無慈悲に感じるかもしれません。しかしそれが無限の叡智によって考えられた宇宙発展のためのルールであり、人間の理解をはるかに超えたものです。神とは何かと表現するならばそのルール(法則)を創造した無限の叡智ということになるでしょう。


    追伸
    この原因と結果の法則をもって「人間は永遠に生きる」というテーマを終わりにしたいと思います。後で見れば色々重複した箇所もあり、満足出来るレベルのものに出来たかどうか全く自信がありません。

    大空