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    大空澄人

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    これまで自分の探求してきたものを 「いのちの波動」 というページ上で表現してきましたがPCのトラブルによりこのページに引き継がれました。一時的にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

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    死後の世界はこれまでの延長線上に

    2012.06.26 11:14|インスピレーション
    死後に到達する場所を決めるものは自分自身であり、葬儀のやり方や僧侶の読経が決めるのではありません。自身の霊的進歩の度合いに応じた世界に自動的に進んでいきます。大自然の法則によって間違えることなく導かれていきます。それは生まれてからこれまでに歩んできた道の延長線上にあります。

    日暮れの墓地で

    2012.06.24 15:26|体験集
     


    2007年の10月に入ったばかりのある日暮れ時、私はふと散歩に行きたい衝動に駆られて家を出た。歩いているといつの間にか海辺の墓地の横の道にさしかかった。折から東寄りの風が吹き、それは先月50過ぎで亡くなった人物の墓に立ててある銘記(故人の名前を書いた旗で確かこの辺りは49日が済むまで立てる風習がある)を大きく横にたなびかせていた。そのシーンがいかにも何かを訴えているかに見えたので私はちょっとそこに立ち止まり、いつもの感性を集中してみたのである。彼は先々月病気で亡くなったが以前からの知り合いであり、道で会えば会話を交わす程度の関係であった。

    その場で伝わってきた彼の念は 「僕は残念だ、悔しい! Oさん、僕はあなたがうらやましい。自由に生きられるあなたがうらやましい」。というものであった。

    すると向こうから彼の妻が夫の墓参りするために歩いてきたのである。私がそこに気を引かれて数十秒後くらいだったろうか。その人はまるで示し合わせたかのようにその場に現れた。私は積もる別離の悲しみで泣き腫らした彼女の顔を見つめて型通りのお悔やみの言葉を述べた。そして一瞬躊躇したが今聞いたばかりの彼からのメッセージを彼女に伝えたのである。

    すると「ええ、彼は死期が近いことを知って悔しい、残念だとよく言っていました。彼もあなたみたいに自由に生きたかったのです。その生き方がうらやましいと日頃から言っていました。そうですか、彼は今もそう言っているのですか? あなたはそういうものが分かるのですね」と彼女は答えた。

    彼女は夫の死後毎日のように墓参りに来ているようでこれまでの深い悲しみが心身に刻み込まれているようであった。そして続ける。

    「お寺の坊さんは葬式に来て、さも分かったような顔をして拝んだりしているけどそういう事が分かった上でやっているのかしら?」

    「多分わかってないんじゃない」と私。

    「もっと生きたかっただろうに、私は彼が可哀そうでなりません」と彼女。

    「でもこれから彼はちゃんと導かれていくから心配ないよ。あなたが悲しそうにしていることが彼を悲しませることになるからね。あなたが毎日元気に暮らしていけば彼も元気になるよ。あなた次第だから」と私。

    等々私はその場で霊的真理を語った後で彼女の家に「シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q &A 」という本と自分がこれから立ち上げようとしていたホ-ムページの材料の一部を持っていき何かの役に立てばと渡したのである。

    それから幾度か墓地で彼女と会ったが会うたびに彼女は元気になっているように感じられた。数か月後にシルバーバーチの本を返してくれて“ちょっと内容に難しいところもあったけどよくわかった”とのことであった。ある時彼が夢に現れたそうで「もう僕はこっちで結婚したからお前も好きなようにしたらいい」と言われたそうでサバサバした様子であった。「うん、その通りじゃない?これからはあなたも好きなようにしたら」と私。

    その後はたまに彼女の顔を見る程度だが、今では悲しみの痕跡は殆ど感じられないようになり元気に自分の人生を邁進しているようである。尚、他界した彼女の夫が私の事をうらやましいと感じていたのは私はこの村社会の中で周囲に染まることなくある程度自分の生き方を通してきたように見えたからであろう。この辺の人たちは常に他人からどう思われているかという事が価値判断の基準になっており、自分の信念を曲げてでも周囲と合わせている者が多い。それは自分を偽ることであり自らの魂の成長を阻害することではないかと思う。

    日本の田舎はどこに行っても大なり小なり相互監視、他人の生き方に干渉するような風潮があり息苦しさがある。都会に行けばそういう束縛感は少ないものの隣人は何処の誰だかわからないという不気味さがあって治安も良くない。昔父から聞かされた次の言葉をよく思い出す。

    「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると安いところへ引っ越したくなる………」。夏目漱石の草枕である。

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    夏の夜の出来事

    2012.06.19 15:08|体験集
    P1020688.jpg 

    約23年前の8月、盆も過ぎた蒸し暑い夜の事である。田舎では真夏は窓を開けて寝る家が多いが我が家でもその夜は窓を全開にしていた。ぐっすりと寝込んでいた真夜中、私は裏窓からスーッと冷たい風が入ってきたのを感じた。その直後誰かが私の下半身(太腿あたり)にしがみ付いてきたのを感じたのである。振りほどこうとしたがどうしても離れない。一体誰なのか見ようにも頭が上がらないし肉眼で見えるものではなさそうであった。離せ!と叫ぼうにも声が出ない。

    一人でもがいている時間が非常に長く感じられたが、ようやく声にならない声を上げてガバッと布団から起き上がることが出来た。家族は3人の子供も含めて同じ部屋で寝ていたが只ならぬ様子を感じて目を覚ましてしまった。子供達は当時の事を今でも覚えていてその時私は「カッパー」と叫んで起き上がったと言う。それはいわゆる金縛り状態であったのだろう。その時は何故そんなことが起きたのか分からず気味が悪くてその後はなかなか寝付かれなかった。

    翌日の昼過ぎに家に電話が入り叔母さんが亡くなったという。アッそういう事だったのかと私はようやく昨夜の出来事を理解することができたのである。金縛りにあった前日の昼間、私は末期がんで余命いくばくもない叔母さんを病院に見舞っていたのである。すでに彼女は意識がなく意思の疎通は困難な状態でこちらを認識することは出来なかった。当時の私は霊的な知識もなく、見舞いに行ったので叔母さんが家について来たのだろうと考えたものである。

    彼女は昔、我が家で生まれ育ったという話を両親から聞いていたのでこの家への愛着があったのだろうと思う。人は亡くなる前は、特に意識が無くなってからは肉体を離れて(幽体離脱)繋がりのあった人のところへ挨拶に行くのだろう。霊感のある人間にはそれが感じ取れるが、そうでない人のところへ行っても何もわかってくれないということになるのだろうと思う。そういう事は結構あるはずだが大半の人は気が付かないということだろう。彼女は私のところに来る前には当然自分の夫や子達のところに行っているはずである。いわゆる霊媒体質と言われる人間はオーラが大きくてあちらに行った人から見て目立つので接近し易いらしい。旧ホームページの フォトギャラリー で自分のオーラを撮影したものがある。

    その叔母さんの姉も幼少時、我が家で過ごしたことがあり彼女はかなり昔に亡くなったがその前夜、私の母の夢に現れたそうである。母の話によると彼女が髪を振り乱してしがみ付いてきたそうである。翌朝母は恐ろしげにその夢の話をして聞かせてくれたが、その話の後長崎(彼女は長崎に住んでいた)から叔母さんが亡くなった知らせが入ったのである。現在98歳になるが母も霊的な感性があったのだろうと思う。

    足にしがみついたりするという事は非常に物質的な現象であり、それは極めてこの世で肉体を持って生活している人間に近いものであろう。まだシルバーコードが切れていない状態なのだから当然であり生霊という状態なのだろう。それにしても彼女の実の子や夫でなく私のところに来たのは特別に感情的なものがあったのではなく私が霊的に感受性があると見たからであろう。その後は叔母さんの気配を感じたりすることは一切なくなった。夢に出ることも無ければ我が家の仏壇や墓に行っても何も感じることはない。今頃は霊界で幸せに暮らしていることだろう。

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    過去を引きずらないこと

    2012.06.12 10:16|随筆集
    朝夕の犬の散歩は娘の入院以来、私の仕事になった。我が家の犬は室内犬なので散歩を済ませる毎に足を洗ってやらなければならず、雨の時は濡れて足が一層汚れてしまう。妻の手が空いている時は犬の足を洗ってくれるが、今は半々というところだろうか。しかし手がかかるとはいえ、私にとって犬の散歩は運動にもなり日課の中で楽しみの一つである

    月、木の朝は燃えるゴミを出す日である。ゴミ袋を下げ(これが結構重い)犬のリードを引いて酒に酔ったようにふらつきながら歩いていく。どうしてもまだメニエールのふらつきが取れない。この状況は若い頃なら大きなストレスになることだろうが、私の場合は年齢的なものもある上に、元来が野心のようなものが薄かった。人と争ってでも自分の野望を果たすなどというような生き方とは無縁の人間であったと思う。また若いころから結構自分のやりたいことをしてきたので今では特に何かをやりたいというものも無い。あるいは無気力状態と受け取られるかもしれないが。このまま死んでも思い残すことは無いなどと言えば他人には理解されないだろうが本当にそうなのだから仕方がない。世の中は何が何でも死にたくない、とにかく生きたいと考える人が大半だろうと思う。

    朝は家の近くを回ることにしていて歩く距離は数百メートルほどだろうか。以前は早足で1km以上は歩いていた。今は速く歩くことが出来ずゆっくりしか歩けない。夕方は車で少し離れたフェリー乗り場の公園や林道に連れて行くことにしているが犬もゆっくり歩くペースに慣れてきたようである。林道は高いところにあるので眼下に私の住む地域が見渡せる。去年まで校医をしていた中学校や歯科医師会の奉仕活動の会場になっていた建物がよく見える。最初に見たときは懐かしさがこみ上げてきたが、そのうちにそういう感情は薄れてしまった。人は人生のある時期を過ごした場所には特別の思い入れがあるかもしれない。その思いの強さは人それぞれだろう。

    全ては一つの通過地点であり人間はいちいちそういうものにとらわれていては前には進めない。何年も前、西国巡礼で京都の善峰寺で「人間は過去のものを全て持っていては前に進めない。不要なものは捨て去らねばならない」というインスピレーションを受けたことがある。

    青春時代に流行った歌を歌って感慨に浸るのも悪くないかもしれないがそれも一時のものである。私は林道から見えるかつて自分が活動していた場所を眺めて数秒の間瞑想してみた。人間は個人差もあるが死後に振り返る生前の思い出というものは一つのエピソードとしては残るが次第に風化していくものであるということを直感した。以前のホームページで妻の父のメッセージがあった。”死後の世界”の中の 35 愛の心 というテーマで掲載したものであるが正にその通りだと思う。人間というものは常に新しい体験を求めて前進していくものであり、いつまでも過去を引きずっていては前には進めない。

    家庭菜園(とうもろこし)

    2012.06.09 09:59|日々の暮らしの中で
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    とうもろこしも育てやすい。この場所は土地が痩せていてあまりいい場所とはいえないがちゃんと成長してくれた。 主枝がどんどん伸びて成長が止まった頃にてっぺんの雄穂が開き、次に下にある雌穂がモヤモヤとした絹糸を出す。 それを待っていたかのように雄穂から霧のような花粉が雌穂の上に落ちて受粉をする。それは絶妙のタイミングで起こり間違うことがなく、自然界のものは完璧な摂理のもとに営まれているということを実感できる。

    とうもろこしも実が食べられるようになった頃に鳥が狙ってくるので防護の網が必要だ。網を被せていたら気分が悪くなってきた。網は細かくて見づらく、見にくいものを凝視しなければならない(この間までの自分の職業のよう)ので眩暈を誘発しやすい。支柱を立てるのに一日、骨組みの竹を組むのに一日、そして網を張るのに一日かかった。 今までのように一度に済ますことができないので日数がかかる。なんという遅さだろうか   

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    家庭菜園(つる科の野菜たち)

    2012.06.08 16:02|日々の暮らしの中で
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    今年はもう家庭菜園はやるまいと決めていたが季節が進むとともに体調の許す範囲で少しずつやり始めた。スイカは手がかかるので当初、気が進まなかったが真夏になるとスイカが懐かしくなるだろうと思いホームセンターに行って小玉の苗を二株だけ買って植えた。それが知らない間に受粉していて小さな実をつけた。順調なら7月中旬には食べられるだろう。でもその前にカラス避けのネットを張ってやらないと。

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    五感で捉えられないもの

    2012.06.07 13:54|インスピレーション
    身の回りに何か重大に思える事が起きるとどうしても人は五感を総動員して何が起きたのかを理解しようとすることでしょう。時にはパニックになってしまうこともあるでしょう。しかし人生を左右するような出来事の起源は目に見えない世界にあり、五感で捉えることは出来ません。世間一般の人は自分の周りに充満している霊的エネルギー(法則)が理解できません。人間一人ひとりが遭遇する出来事は本当は全宇宙に充満する神の法則(霊的エネルギー)によって支配を受けているのです。

    自分の心に思うこと、そしてそれに続く行為の一つ一つが神の法則の裁定を受けて結果として自分に返ってきます。また生まれながらに決められている人生のコースや課題(宿命)があり、それも法則の支配を受けています。この世ではなかなかそれを理解する事は難しいかもしれませんが、多くの人はこの世を離れてようやく理解できるようになります。しかしこの世にいる間に理解できればそれに越したことはありません。それを理解できればどう生きればよいか自然に分かってくるからです。

    神の教育

    2012.06.02 20:34|インスピレーション
    人生で遭遇する苦々しい出来事、心に痛みを感じるような体験は神の教育なのです。人は自分に都合のいい事よりもそういう体験によって神から教えを受けているのです。良薬は口に苦しとは正に神からの教訓なのです。それは神の光の中からはみ出ることのないようにという神の御心です。