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    大自然の意識

    2012.10.30 09:52|インスピレーション
     


    自然界と人とは元のところでつながっており、人は自然を離れて生きていくことは出来ません。人間社会の細々とした問題に悩まされている時、人は小さな意識しか発揮できていないのです。人の個別の意識はすべてを包む大自然の意識の中のごく小さな一部に過ぎません。人の意識も大宇宙の意識と同根であり連動しているのです。故に人は小さなことで悩んでいる時、故郷である大自然の大きなエネルギーによって包み込まれ、癒されるのです。

    悩み、苦しみ、迷い

    2012.10.26 14:15|インスピレーション
     



    それらは人間の成長のための胎動です。真実を見出すために魂が模索しているのです。何の悩みも苦しみもない人生を送っていては人間は成長することが出来ません。悩みや苦しみのない人間は世界中を探しても一人もいません。

    本当の修業とは

    2012.10.21 09:52|インスピレーション
     


    普段の生活の中で起きる問題にどう対応するかということが本当の修業なのです。問題が起きた時、一瞬視界が閉ざされたように感じられることがあるかもしれませんが、やがてはパズルを解くように解決の糸口が見えてくるものです。慌てることなく問題をよく観察して静かに自分の心と対話をしていけば自然に道が開けていきます。人の心の中には神が宿っているのですから。


    秋祭り

    2012.10.17 15:27|日々の暮らしの中で
      

    秋祭りのシーズンが来た。今年は私は体調不良のため太鼓台奉納には加われなかった。
    これはわが地区の太鼓台。今から30年前にほかの地区から譲り受けてきたものだ。
    それまでは長いブランクがあった。

    それより以前にはこの2倍くらいのサイズの太鼓台があったが老朽化して使えなくなった。
    私は小学校6年生のときに乗り子(太鼓台に乗って太鼓を叩く。打子ともいう)を務めたが
    翌年を最後に古い太鼓台はお役御免となった。
    あれから早や40年以上の月日が流れた。

    小豆島は急激な人口減少に見舞われていて現在はどの地区でも担ぎ手が減り大きな太鼓台は持て余す。
    今の人は昔に比べて体格は立派になったが物を担いだりすることがないので肩が弱くなっているから
    大きな荷重には耐えられない。これくらいのサイズで十分だ。

    また少子化で乗り子がいない。乗り子は男の子と決まっていたが最近は女の子も載せるようになってきた。
    どこやらの年寄りが文句を言っていたらしいがそんなことを言っている場合ではない。





    P1020900_convert_20121016163243.jpg 

    神社の参道をこうして左右に倒しながら登っていく。写真で見るとわからないがここは上り坂である。
    今年は週末ではなかったのでギャラリーが少ない。茂みの奥には護国神社がある。




    P1020899_convert_20121016163446.jpg 

    反対側に倒したところ。上に二人立っている者が横棒の係りで花形である。
    若くて身軽な者でないと落ちて怪我をする。太鼓台を起こした時には素早く
    着地しないといけない。以前に倒した勢いで前に吹っ飛んだ者がいた。

    この太鼓台は小さくて軽く動きが急なので油断できない。

    年配者数名が宰領人となり太鼓台の指揮をしている。





    P1020902_convert_20121016162452.jpg 

    参道のスロープを登り切り神社の境内に来た。担ぎ手の気分も高揚している。
    青空に赤い布団が映える。秋祭りはこれで6年連続の快晴に恵まれた。

    皆酒が入っていて気が大きくなっているので興奮しやすい。
    他の地区との対抗意識があり、昔は祭りというと必ず他の地区の人間同士の間で喧嘩があり
    その止め役の者が用意されていた。

    しかし最近は滅多にそういうものは目にしない。少し霊的に進化してきたのか?
    神様が聞いたら喜ぶかもしれない。 元来小豆島の人は温和だ。





    P1020912_convert_20121016163041.jpg 

    祭りの朝、竹藪で生笹を切ってきて前に刺す。それに御花と書かれた短冊を付け地区の皆から貰った
    寄付を表している。祭りは元来五穀豊穣を神に感謝するお祝いだ。
    そういう雰囲気が出ているだろうか?


    人の本質は皆清浄

    2012.10.13 10:14|インスピレーション
     


    人は元来清浄で高い意識を持っているのです。でもこの世に生まれてきて肉体に宿ってしまうとそれが発揮できなくなってしまいます。どれくらい自分の本来の意識が表現されているかそれは人様々です。各自の魂の年輪がその大きな要素を占めます。

     

    一人一人がその高い意識を表現するようになればどれほど世の中は良くなることでしょうか。人の心の愛や思いやりなどの本源はそこにあるのです。日に一度は瞑想などをして本来の自分の意識を感じてみましょう。その積み重ねが本来の意識からの奔流を増やすことになります。


    自惚れ

    2012.10.09 11:42|インスピレーション
     

    人間は自惚れるようになったら成長が止まってしまいます。自惚れとは自己満足でありそれ以上の向上心を失う事です。常に成長を目指す、それが宇宙の全生命の姿です。

     

    また自惚れは自分を導いている指導霊との間に壁を作ってしまいます。人は何でも自分一人でやっているのではありません。自分の思想や発想などは元来指導霊の影響を受けています。自惚れてしまうとそこからの波動が届かなくなってしまうのです。自己の成長願望が指導霊の援助を引き寄せることになるのです。

    真っ直ぐ、誠実に

    2012.10.05 09:26|親族、友人の霊界便り
     


    人として生きる上で最も大切なものは真っ直ぐに誠実に生きることだ。目先の損得ではなくそういう生き方が実は本当に人としての喜びを味わうことができる。何か自分に有利になるように策を弄するようなことをすればその時は得をしたように思うかもしれないが実はそれは後で損をすることになる。真心を出し惜しみして目先をかわすなどという生き方は自分の魂の成長にとって少しも得にはならない。結局失うものの方が多くなる。

      (9月18日、久しぶりに父から)

    生老病死という言葉

    2012.10.01 18:05|インスピレーション
     

                  (悟りの猫)

    生老病死と言う言葉は人間が肉体に宿って地上で生活している間の営みを表した言葉で、人の一生を主に肉体の視点から観察したものであり、仏教では生老病死を苦しみとして捉えそこから目をそらす為の様々な方便が使われてきました。

    しかしその裏には霊としてのもっと大きな生命の営みがあります。霊は一時期を肉体に宿って地上生活を体験し、それが終われば本来の場所に帰っていきます。霊としての生命は永遠であり死というものはありません。その事実を理解する者が増えていけば生老病死と言う言葉も過去のものになっていくでしょう。