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    神の心と良心の声

    2013.02.24 17:38|インスピレーション
     

    神の心に近づいていくことが人生の大きな目標です。日々神の意志に波長を合わせるように心がけましょう。祈りもその為にあるのです。神に近づくほど調和の世界が広がり安らかに暮らせるようになります。神の心に近づくにはどうすればよいか、それは各自が考えることです。本能的に人はどうすればよいかよく分かっているはずです。その声に従って生きればいいのです。それが良心の声です。

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    檀家制度は終わった

    2013.02.16 14:52|真理を求めて
     

    この地域の現状を見るにつけ仏教は葬式仏教という以外に表現のしようのない状態になっている。人々は葬式以外、寺は必要がないのである。檀家と寺との関係は約300年ほど前に檀家制度が出来てからは檀家の者と寺が互いに助け合って寺院を維持してきたという。そこにおいては寺は仏教の教えを学んだり地域の文化的交流の場になってきたのであろう。しかし今では誰も寺に寄り付かない。この地域の状況はかなり極端かもしれないが他にもそういうところはあるだろう。

     

    すでに檀家制度は崩壊しているのである。もし人々が本気で仏教の教えを学びたいと思うなら自由にどこにでも行くことが出来るので、何も気に入らない地元の寺に行く必要はない。寺の方ももし本気で仏教を学びたいなどという人間が訪ねてきたら戸惑うに違いない。何故なら寺自身が少しも仏教を実践していないからである。下手に説教などすると自分が悟っていないことがばれてしまう。真摯に真理を追究している人間には誤魔化しは通用しない。

     

    どこにでも法話をする僧侶はいるがよく聞いてみると必ず一つのパターンがあることに気が付くだろう。「お釈迦様はこう言いました。お大師様はこう言いました」というセリフは多分最もポピュラーなものだろう。しかし自分の考えで「こうです。真理はこうなっているのです」というセリフは聞いたことがない。自分に本当に確信があるなら誰かの受け売りではなく自然に自分自身の言葉として現れてくるはずである。自分の言葉で言わないのは確信が持てないという事と、他人の言葉を受け売りする事でもし間違っていても自分の責任にはならないという逃げの姿勢が見て取れる。

     

    仏教関係の書物を見ると、乱れた世を立て直すには「今こそ仏教に還るべき」などという言葉を見かけるが肝心の仏の弟子であるべき僧侶が少しも仏の教えを実践していないし、むしろ真実の教えを邪魔しているのだからどうしようもない。仏像、教本、衣、伽藍その他の装飾物は唯のシンボルにすぎない。人間は自身の中に神を宿しているのだからそんなものは必要がないのである。


    自分の神性を見出し人生体験の中で表現していく事こそが人がこの世に生まれてきた目的であろう。単純に言って「自分以外の誰かの為に尽くす事」。それが仏教に限らず全ての宗教の根本であるはずである。

    因襲の世界

    2013.02.11 16:59|真理を求めて
    P1030305.jpg 

    相変わらずこの地域では葬儀が多いが、葬儀に行くたびに自分の中にある日常意識とは別の意識というものが拒否反応を起こしてくるのを感じるようになってきた。因習だけの儀式はもううんざりなのである。霊的事実とそこに行われている事の乖離の大きさがある種の不快さとして感じられてしまう。僧侶の読経を聞く度また聞かされるのかと思ってしまう。バンバンとシンバルを鳴らすのも耳障りであり霊的交流とは無縁の世界である。私は彼らの読経を聞いているうちに体がしんしんと冷えてきたので中座して式場から出てしまった。地区の役員をやっている頃、よく葬儀の手伝いをして式場のことは勝手を知っている。

     

    お経の内容と今あちらの世に旅立とうとしている人の環境とは何の関連性もない。唯、古くからやってきたのでやっているというだけのこと。彼らはそのことに疑問を感じることはないのだろうか? 少しは霊的真理を勉強したらどうなのか。その引導儀式とやらをして1時間で30万円もの布施料を取る。しかもその寺は各家ごとに違う料金の“布施料のお知らせ”という文書を配布していることが発覚している。それでもこの辺の人達は怒らない。“破れ鍋に綴じ蓋”という言葉がまさに当てはまる。私はとうに檀家を離脱しているので直接関係はないがこの辺の人達の精神構造は理解しがたい。その寺は以前にもましてあこぎな事をやっているのだが。

     

    また葬儀があるたびに香典を包まなければならない。そして49日や一周忌などがあるたびにそれが続く。仕事を辞めた今では収入源はスズメの涙の国民年金のみ、交際費はバカにならないのである。葬儀があるという話を聞くたびうんざりしてくる。何で人がこの世を卒業してあちらに旅立つ時に金ばかり出さなければならないのか。

     

    ともあれ少しばかり霊的感性のある人間にとってはそこで行われている内容の意味が普通の人よりは深く洞察できる。何という空しいことをしているのかと思うが殆どの人達にはそれは見えない。それが今の私のジレンマなのだが、我慢することの修業をしていると思う事にしている。

    私はあの喪服というものが嫌いで葬儀や通夜は仕方ないが49日やそれ以後の行事は私服で通す。時々数珠も忘れる。教本を見て読経をすると他界者からの通信はぱたりと止まってしまうので通信を聞きたい時は読経はしない。

     

    世間では仏式の葬儀が最も多いと思うが列席者は仏教のこと等殆ど分かっていない。唯、慣習の通りにしているだけでそれを仏教を実践する事だと思っている。しきたりに通じることが宗教的であると勘違いをしている人が多い。本当に仏教を実践している者は宗教者を含めて極めて少ないと思う。一般大衆よりもむしろ宗教者の方が物欲に捉われて物質的な生き方をしているのだが当人にその自覚はなく周囲も無頓着である。

     

    ここしばらくは確定申告の作業に追われこのブログの更新も出来なくなっていたがようやく峠を越した。去年2か月しか仕事をしていないのに確定申告しなければいけないのも辛いがやらないと今後の為には何かと不利である。書類を探したり電卓を叩くのは好きではないがこれも物質世界の宿命である。そんなことをしなくていい他界した人たちは実はうらやましい環境にいるのに地上の人間は死を極端に恐れる。上にあげたような因習に縛られ真理を見出せないでいるのを見るのはとても悲しい。

    供養の儀式と霊的事実

    2013.02.03 11:01|真理を求めて
     

    49日が終わった数日後に“日のおかんき”というものが行われた。それは命日の供養ということだが丁度死後一か月経ったわけである。正月を挟んだのでこういう変則的な日程になったわけである。49日が終わっているのにまだ中陰供養の延長みたいなものをするのは変な話だが親戚なので出ないわけにはいかない。それに彼らは善良な人達なのだから。

     

    夕方供養の儀式に出かける前にふと神棚の前に行きたいと感じ、行っていつもの様に精神統一をしてその場の波長に合わせてみると再びおじさんが現れた。そして彼の長女の婿(2年前に他界)が続いて現れ私に意志を伝えてきた。それは残された妻宛のものであったが彼が直接意念を送ってきたことは死後初めての事であり、私は彼からのメッセージを便箋に書きとめて後で彼女に渡した。その内容はプライベートな事なのでここで公表しないほうがいいと思う。

     

    出かけるための準備をしているとその親戚から電話があり予定を早めたので皆来ていてもう始まっているから早く来てほしいという。そういう時私がよく感じている事はわざわざそこに行って慣例的行事をしなくても本人はここに来て現に対話しているのに……..。と思ってしまうのだがこればかりは自分にしかわからない事なので仕方がない。

     

    行ってみたらすでに行事は半分以上終わっていたがやはりおじさんが現れた。今回は何やらきょとんとした雰囲気が窺われたが、彼は皆と同じ席に座っていてその行事に参加しているようであった。アレッ、もうワシの49日の法要は終わった筈なのにこれは何だ? 私はおじさんの気持ちの中にそういうものを感じてしまったがこれは内緒にしている。

     

    葬儀をすることは次の世界への旅立ちを祝福する卒業式のようなものであり、霊的にみれば本当はそれ一回きりで十分なはずである。後で中陰供養をするといっても2回もやれば十分ではないだろうか。死後の導きは霊界主導で行われるので未熟な地上の人間が余計な事をする必要はないと私は思っている。あまり何回もやっていると相手が理解力不十分な魂の場合、混乱が生じてくるのではないだろうか。彼らは地上への執着を切ろうと努めている時期だろうから。

     

    他界者側から見れば、自分は盛大に式をして送り出されたのに地上では似たような事をまだ続けているではないか。これは一体どうなっているのだろうと思いはしないだろうか。地上から葬式後も何度も人々が集まって自分に念を向けられると気になるはずである。彼らは地上からの思念は我々が考える以上に敏感に受け取っているからである。過度の供養儀式は不要であり、あえてそういうものを繰り返さなくても他界した人たちは必要なときは何時でも家族や愛する人達の傍に来られるのである。地上界の愛する人々と彼らとの絆は儀式をするしないに関係なく続き、むしろ生前より強くなっているのである。