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    読経の真実

    2013.05.28 09:32|インスピレーション
     

    お経は霊的なものではありません。地上の人間が考え出したもので霊界からのインスピレーションで出来たものではありません。意味のはっきりしない誰かが作った言葉を繰り返しても高級霊が感応してくるわけではありません。自分自身の言葉で素直に自分を表現したほうが余程意味があります。書かれているものを棒読みしても自分の心は伝わりません。

     

    神に、守護霊に、他界した家族に自分自身の言葉で意思を表現するほうが余程効果があります。読経は自分の心を静めるにはいいでしょう。しかしそれ自体が何か特別な力を持っているわけではありません。あなたも霊、あなたが自分を訴えようしている世界も霊の世界であり本来同質です。その間をつなぐものは直接の思念の交換です。

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    霊と肉体、審判

    2013.05.26 17:34|人間は永遠に生きる
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    6.霊と肉体
    人間の体は実は何重もの構造になっているのです。我々は肉眼で人の体を見ますが肉体の部分しか見えないのです。時々オーラが見える人がいますがそれは何重かに重なり合ったものの一部が見えているのです。肉体とそっくりのもう一つの体があってそれが肉体に生命力を与えているのですがそれが霊体というものです。死ねば肉体から離れて自由に活動するようになるのです。今までに蓄積してきたものは全部霊体のなかに収められています。学んだことは全て記憶されています。実は脳は霊の指令を受ける受信機であり人体も脳も霊によって操られる機械なのです。

    我々は実は眠っている時、霊体は肉体から離れて方々へ旅行しているのです。生きている時から死後に暮らす場所を何度も訪れているのですが覚えていないのです。その時指導霊に指導を受けたりあちこち案内されているのです。殆どの人はすでに受け入れ先は決まっているので葬儀の時に良い所に行けるようにと儀式をしても関係がないのです。夢の場合はシルバーコードが繋がっているので目が覚めれば肉体に戻ってきますが、死ねばシルバーコードが切れるので二度と肉体には戻ってきません。

    霊体はとにかく肉体にそっくりです。というのも霊体に合わせて肉体が作られていくからです。私たちの本体は肉体ではなく霊体なのです。今までに病気であったり身体的ハンディがあった人も霊体になるときれいに元通りの体になります。高齢者の人も若かった頃のはつらつとした容姿に戻ります。重苦しかった肉体を離れて霊体になるととにかく軽やかで爽快な気分になってきます。もはや今まで自分に制限を課していたものが取れて自由な世界に誕生したのです。
    こういう状態になる事を人々は不幸な事と嘆き、極端に恐れているのですがそれは逆です。それは人がこの地上生活を終え一段高い所へ向けて飛び立とうとしている姿なのです。

    これまで地上の世界と自分を繋いでいた肉体を捨てて霊体になったらいくら家族を呼んでも肩を叩いても誰も気が付いてくれません。その場に霊感のある人がいれば少しは分かってくれますが、最早、自分は次元の違う世界にいるので地上の人達とは正常なコミュニケーションは取れません。結局そういうところでうろうろしても仕方がないことが分かるようになります。そうなった時に指導霊が現れてその人の落ち着き先へ案内します。そこで新たな生活が始まるというわけです。しいて言えばその状態が昔から言われてきた「成仏する」という状態と考えていいでしょう。それは49日とか決まった期間ではなく人によってまちまちです。数日で成仏状態になる人も結構いると思います。

    死後にどうなるのか知っていたら早く新しい環境に馴染めるし、何も知らなかったら戸惑うので慣れるまでに時間がかかります。知らなかったら迷信に振り回されるだけになり知っていたらすぐに状況を理解できます。そこで生前から霊的真理を正しく理解しておくことが極めて重要になります。

    7.霊界の審判
    人にもよりますが大体死後数日以内に自分が人生でした行いを指導霊の元で見せられます。次々とスクリーンに現れる自分の行いが果たしてどういう事だったのかが分かります。肉体と離れたら人は煩悩が自然に取れていきます。誰でもこの世ではわがままを押し通したり、良くない事もしているものです。その時点では見えなかったものがはっきりと見えるようになります。そして自分がした事を悔やむようになります。どうしてあんなことをしてしまったのだろう、あの人に謝らなければ気が済まないと思うようになるのです。

    極端な例として人を苦しめた独裁者はそれを見た途端、自分がやったことの重大さに驚愕して発狂してしまうことがあります。その苦しみは終わるという事がありません。苦しみから逃れる方法はもう一度この世に戻るしかないことが分かってきます。そこでこの世にもう一度生まれ変わって償いをすることを決心し、あまり間をおかずにこの世に生まれ変わってきます。そして精神に異常を来したまま生まれてくることになり、自分が人に与えた苦しみを自分が味わうことによって償いをすることになるのです。そういう例は極めて稀ですがそのようにこの世でひどい事をすると必ず死後の世界ではその罰として償いをしなければならないのです。この世だけ見ていたらわからないわけです。世間はその人はひどい事を一杯したのに一生何もなかったではないか、悪い事はやり得だなと思うかもしれませんが、神は絶対に見過ごしてはくれません。悪い事をすれば必ず懲罰が下ります。

    生前に良い事をした人は良い所に行き、悪い事をした人は悪い所へ行きます。自分のしたことの結果が正確に死後の世界の落ち着き先を決めるというわけです。結局自分の人生は自分が作っているのです。それはこの世においても同様ですがこの世は嘘やごまかしが効きます。ところがあちらに行くと一切嘘やごまかしは効きません。自分の本質が誰の目からも丸見えになってしまうのでどうしようもないのです。この世での社会的地位や権力は何の意味も持ちません。どれだけ心が成長しているか、人や世の中のために尽くしてきたかということがあちらでは意味を持ってくるのです。それは心の財産であり、お金、名誉、権力その他のものはあちらでは無力なのです。俺は偉い人間だったと威張ってみても誰も相手にしてくれないのです。

    幽界の救済施設

    2013.05.22 16:01|真理を求めて
     


    近頃青少年の自殺がよくメディアで報道される。原因はいじめが多いようだが青少年は情動が不安定で何かあると気持ちが振られ易い。自分の若い時を思い出してもそうであった。それなりに人生経験を積むと何か壁に突き当たった時に他の選択肢を考える余裕も出てくるが、経済的にも自立していない青少年の場合は自分の進路が塞がってしまったように感じられるかもしれない。

     

    心の世界のことは世の中で未だ理解されているとは言えない。この種の事件において当人以外に他の何者かが関与していたと言っても社会的に理解されないかもしれないが、私はある霊界通信においてその事を実感することが出来た。

     

    人間は気持ちが落ち込んでいる時には霊的なエネルギーが枯れて心に隙が出来る。もう死んだ方がましだと考えるようになると自動的に見えない世界からその力が働くようになるのである。一度思ったくらいでは実行するには至らないだろうが慢性的にそういう思考に支配されるようになるとリスクが高まってくる。自身の心の波長が低いところをさまようようになると似たような波長を持った者が寄ってきて影響を及ぼすようになる。最後には背中を押されて実際にやってしまうのである。

     

    それが地縛霊である。浮遊霊、不成仏霊といってもいい。この種の者が多くの青少年の自分で人生に終止符を打つ陰の原因になっているのではないだろうか。通り魔事件の犯人の背後にもその種の地縛霊が暗躍していると思う。日頃から世の中を恨み復讐心に燃えていたりするとそういう者に憑依され、電撃的にやってしまうのである。以前から似たような事件が繰り返されているが、背後には憑依という現象があると思う。

     

    これまでは自分で人生を短縮してしまうと長い間暗黒の境涯に置かれて自責の念に苦しむという解釈がなされてきたようだが、それも動機や状況によって変わるだろう。根本は自己責任ということになるが誰かにそそのかされたり、やむを得ぬ動機の場合は反省の期間は短縮されるようである。特に若い人の場合は積み重ねた人生の業が年齢を重ねた人よりも少ないこともあり立ち直りは早いようである。

     

    そして霊界(幽界)にはそういう人たちを立ち直らせる救済(更生)施設のようなものがあるようである。似たような境遇の青少年を集めて再出発させるための教育が行われているようだ。あちらの世界には病院や図書館、集会所、コンサート会場など大体地上と似たような施設があるらしいから当然更生施設もあるだろう。そしてそこで教官のもとで指導を受け十分反省した後には奉仕活動に出るという。その内容は主にかつて自分がやった過ちを他の者が繰り返すことのないように働きかけるのだという。

     

    人生途上で終わった場合は霊界でその続きが行われることになるだろう。あちらでは類似体験をすることが出来るようである。もしどうしてももう一度この世に生まれ変わってきて人生をやり直したい場合はこの世に再生してくる場合もあるだろう。私の友人の場合は2年ほど経ってかなりはっきりと存在が感じられるようになっている。以前はぼんやりとしか彼の事が感じられなかった。これからやることを見つけなければいけないと思っているようなので立ち直ってきているのだろうと思う。神は絶対に私たちを見捨てることはないし私たち自身が神の一分子だから神との縁が切れることはないのである。

    しかし自分で人生を短縮してしまうことは神の意志に反することなので、当然それに相応する罰を受けなければならないのである。若い人が安易に自分の人生を閉じることのないよう祈って止まない。若い人も霊的真理の知識と、ものに動じない強い心を持って欲しいものである。




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    ミナミより

    2013.05.19 10:14|インスピレーション
     

    いつもありがとうございます。私達の世界から地上の家族に向かって通信したい人は一杯います。しかし家族は通信なんかあるわけないと思っていたり、忙しくしているから通じないのです。そこで誰か通路になってくれる人を探しているのですが、それも波長が合わないとダメで誰でもというわけにはいきません。心が通じ合う人でないと難しいのです。それはどの世界でも同じです。

     

    私達にも横のつながりがあって誰か通じそうな人がいることがわかると皆がお願いしに行くことになります。私達にとって家族が悲しんでいる姿を見るのは一番辛いのです。悲しむ必要ないんですよ。私達は地上にいた時より余程元気にしているのですから。


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    葬儀から49日

    2013.05.18 16:38|人間は永遠に生きる
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    5.葬儀の時には何が起きているのか

    当人が眠っている場合は盛大に葬儀をしても何も知らないということになります。そういう事も全て天地自然の法則(神の摂理)によって導かれ、自然にそういう状態になります。人がどんな状態であろうとそこには必ずこの天地自然の法則が働いているのです。

     

    葬儀の時には私の体験では半数くらいは当人が先に他界している自分の親や祖父や祖母に付き添われて葬儀を見に来ているようです。大抵の人が祭壇の前で参列者にお礼の挨拶をしています。その場で私は当人からのメッセージを受け取ることもあります。当人(死者)が最も関心のある事は自分を愛し、愛していた人です。それ以外の人にはあまり関心がないようです。義理で葬儀に来ている人には失礼ながらあまり興味がないのです。今までに見た範囲ではどうも彼らは葬儀に来てもしばらくするといなくなるようです。葬儀を見学し、親しい人に対面して一定時間過ごしたらさっさとどこかへ行ってしまうようです。斎場にも行かないのかそこで何らかの反応があった事はありません。それから最近は火葬が殆どですが死後最低2日間は置いた方がいいのです。あまり急いで火葬にすると霊体の一部が残っていることがありダメージを与えることがあるのです。

     

    世間では葬儀にかなりのお金を使います。その費用は半端なものではありません。世間では宗教的な儀式をすることは死者を導きより良い所へ連れて行ってもらえるというような認識があるのでしょうか? それともそれをやらなかったら死者は成仏できないのでしょうか?真実を言えばそうではないのです。人は次の世でどのレベルに進むかということはすでにその時点で決まってしまっているからです。それまでの人生でその人の積み上げたものが行き着く場所を自動的に決めるのです。死は唯、肉体が無くなっただけの状態でありその人間の本質は何一つ変わっていないのです。急に仏様のようになるのではありません。人は死後長い年月をかけて成長していくのです。人生は永遠に続くのです。

     

    ですから自分が進んで行く死後の世界はこの世で積み上げた世界の延長であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。その辺のところは法則によって不公平なく決まってしまうのです。それは絶対に間違えることはありません。その法則の働きこそが神なのです。神は法則で宇宙のすべてのものを支配しているのです。

     

    その神の働きに対して何らかの影響を及ぼす力を持ったものは全宇宙に存在しないのです。この辺のところを正しく理解することが大切です。僧侶が何十人集まってお経を唱えようが、豪勢な儀式をしようが神の働きには指一本ふれることは出来ません。

     

    またお経自体が特別な力を持っているわけではないのです。もしお経が特別な力を持っていたとしたらそれを唱えれば自分の犯した罪が消えるかもしれません。またお経を唱えれば問題が解決するかもしれません。しかしそういうことは実際にはありません。魔法の言葉のようなものがありそれを唱えたら自分の望みが叶うというようなものは存在しません。もしそういうことが許されるならば全宇宙をコントロールしている秩序が根底から崩れてしまいます。人間もその他のものも神の法則を超えては何事も成し得ないのです。

    お経やその他の祈りの言葉はその言葉自体が霊界に届くのではなくその人の心そのものが届くのです。ですから人の心の内容をそれに乗せて届けると考えたほうがいいと思います。霊界では言葉は必要なく心の内容が一瞬に伝達されるのです。この世とは意思伝達の方法が違うのです。この世と霊界とでは相当に違いがあるのです

    戒名というものがあり院号を付ければ高額なものになっているようです。それは意味があるのでしょうか? もし院号付きの高額な戒名を付ければ死者は導かれてあちらの世でいい所へ行けるのでしょうか?これも先ほどの例から自ずと結論が見えると思います。本来仏教にはそういうものはありませんでした。仏教が中国、韓国をわたって日本に伝来する間に儒教やその他の思想の影響を受けた結果生まれたのです。戒名はこの世の人間の価値観から出来たものであり、あくまでも物質的なものです。物質的なものはあちらの世界に対して何一つ働きかける力はないのです。どれほど立派な墓を建てようが高価な仏壇を作ろうがあちらの世に対して働きかける力はないのです。あちらに通じるものは心だけです。心があちらの世界では実体があり、物質は影に過ぎないのです。この世とは逆になっているので価値観が違うのです。

     

    死後の世界に進んで行った人達が一番嬉しいものは何でしょうか? それは愛です。家族や親しかった人達が自分に向けてくれる“愛”なのです。第三者である宗教者が儀式をしてもそれはあくまでも儀式に過ぎません。遺族や親友の愛に勝るものはないのです。葬儀とはこの世の卒業式であり本当は祝福すべきものなのです。苦しいこの世の修業から解放されたのですから。稀に自分が死んだことがわからない人がいます。そういう人にとって自分の葬儀を見ることは状況を正しく理解させるということで意味があるでしょう。きちんと理解が出来ていれば葬儀すら必要がないのです。葬儀は殆どがこの世の人達に向けたものです。

     

    5.死者は49日の間は家にいるのか

    彼らは自由にどこにでも行けます。外国にだってすぐに行けます。肉体から離れたら束縛がなくなるのです。肉体に宿っていたら移動の手段が必要になるし交通費もかかります。肉体を離れて霊になると一切そういうものは必要がありません。思っただけで行きたい場所に移動が出来るのです。我々が夢の中でどこか遠い所に行っているのと同じ原理が働きます。

     

    ずっと家にいても誰も自分の存在を分かってくれないし家族の心も丸見えなので本心が分かってしまいます。自分に好意的でなかったり悪口を言っているのを見ると居たたまれなくなってしまいます。ずっと家にいるという人は稀でしょう。誰も話し相手になってくれないし空しさが募るだけです。彼らは49日という期間に関係なく何時でも家に来られるし自由にどこにでも行けるのです。中陰の供養の時は殆ど来て様子を見ています。中には一緒に座って儀式に参加している人もいます。家族だけの小さな催しで嫌いな人もいないしリラックスしているようです。知らない人が大勢来る大掛かりな葬儀より家族の愛のこもった催しは嬉しいようです。死後は肉体が無くなり霊感が鋭くなるので物を言わなくても人間が何を考えているかすぐにわかってしまうのです。誰もが霊能力者になるというわけです。例えば少し精神統一をして亡くなった人(愛でつながっていた人)の写真を見ながら心の中で呼びかけてみてください。それは必ず届いています。

    朝の散歩で

    2013.05.13 11:08|日々の暮らしの中で

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    朝は時々この場所に愛犬を連れて散歩に来る。知った顔ばかりの小さなコミュニティーの中を散歩していると何かとうっとうしいこともあるが、ここを早朝散歩しているのは殆ど観光客なので気楽である。このように潮が十分引いていないときは向こうには渡れない。ここに来ると必ず昔、ヨットに乗った友人が現われる。と言っても彼は2年前に他界しているのだが。彼とはヨットで大阪に行ったり岡山県の牛窓に行ったり、とにかく海で一緒に遊んだ。

    ヨットを売ってボートに乗り換えた後にも彼はよく乗りに来た。彼は生前から海が好きで特にこの場所を好んでいた。彼は元来わずらわしい世の中を嫌って一人の時間を過ごすのが好きな男だった。
    彼の面影が眼前に現われたと思うと私に話しかけてきた。

    以前に乗っていたピオンというヨットが一番好きで思い出深かったらしい。今は生前に自分が好きだった場所に来て時間を忘れてのんびりするのを日課にしているらしい。しかしこれからは生前の反省もこめて何か自分の為すべきことを見つけなければいけないと思っている。

    彼は2年前に自分で人生の終止符を打ってしまったので、しばらくの間は私の前に現われることはなかったが、去年あたりからこの場所やその他彼がよく通っていた海辺に行くと気配を感じるようになっていた。しかしぼんやりした感じで今一つ自分の意志というものを表現できないようであった。今年になってからは相当クリアーに彼の意志が伝わるようになってきている。
    2年経って反省の期間もほぼ終わりこれからは前に向かって進もうとしているようである。

    チョコ 

    散歩中の愛犬

    私は家に帰りいつものように祈りの間に入った。するとそこでも彼は現われた(私について来ていたのだろう)。彼は今私がそういうことをしているのに驚いたようであった。昔の私は祈りなど考えられなかったのである。するとそこににこやかな表情で父が現われた。彼は終生、父が乗っていたヤマハメイトを譲り受け、乗り続けたので縁があるというわけである。私は両者が会話している様子を感じたので父に頼んだ。
    彼の今後の事お願いしますよ。

     

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    子供のように素直な心で

    2013.05.08 15:56|インスピレーション
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      二度目のメッセージを受けた三都半島の白浜。向かいは香川県の志度方面。

    ミナミより
    この間の小豆島の旅では私もずっと一緒にいました。とても楽しかったです。Oさん、本当にありがとうございました。私は家族が旅行するときはいつも一緒に行くようにしています。車で移動するときは皆と一緒に乗っています。この間、三人で山から景色を見た時、私も一緒に見ていました。距離や時間に関係なく自由にどこにでも移動できるのがこちらの世界の素晴らしい所です。

    私の住む世界は地上のような苦労がありません。重荷を背負わなくていいのです。したい事が制約なしに出来るのです。そちらの世界は制約ばかりで気の毒だと思います。

    両親と姉へ
    お母さん、今まで一杯私たちの為にしてくれて感謝しています。これからは先の事を心配しないで今を楽しみましょう。

    お父さん、今まで一つの事にあれだけ打ち込んでこられたのは素晴らしい事です。やっぱり私のお父さんは素敵です。

    お姉さん、いつも自分をしっかり持っていてブレない人です。尊敬しています。ずっと私のお姉さんです。

    場所を変えて(私は初めのメッセージを受けた数時間後景色のよい海岸へバイクで移動した)

    ここは素晴らしいところですね。島にはこんなにきれいなところがあったのですね。
    私たちの世界からそちらの世界を見て、最も親しみやすく波長が合うのは子供の様に素直な人です。そういう人には安心して近づけるのです。逆にかたくなで身構えているような人には近づきにくいです。人は長くこの世に生きているとどうしても自分の周りにバリアーのようなものを作ってしまうのでしょう。そちらの世界の人達は競争ばかりで気の休まる時がないでしょう。皆が競争しなくていい世の中ができたらいいですね。


    追伸
    3月30日の「愛の通信」の女性で名前はミナミさんです。清々しい印象の人でこちらも癒されます。私はこの間彼女の御両親やお姉さんとも会いましたが常にその場にミナミさんが一緒にいることがわかりました。

    死の前後に起きていること

    2013.05.06 11:05|人間は永遠に生きる
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    家族の誰かが亡くなって葬儀やお通夜を体験したことがないという人はまずいないと思います。そういう時、死んでいく人達の身の上には実際にどういうことが起きているのか、自分の霊的な体験と最近のスピリチュアリズムの考え方を基に検証してみたいと思います。

     

    数年前に義父と叔父が他界しました。2人とも今までに何度もこのページに登場していて貴重なメッセージを貰っています。そしてそれは今も続いています。ここでは彼らの事例を中心に挙げてみたいと思います。

     

    亡くなる前日または前々日からあるいはもっと前からこの世を去るにあたって親族のところに挨拶にきます。夢の中に現れてくることも多いかもしれません。毎日祈りや瞑想をしている人であればその場に現れるかもしれません。自分の死期を察してお別れの挨拶にくるのです。そこでは彼らは「これから旅立つけど今までありがとう、これまでにしてくれたことに心から感謝しているよ」というような内容のメッセージを送っているようです。一度私は叔母さんがなくなる前に足元にしがみ付かれてびっくりしたことがありました。それはこのブログの2012年6月19日の体験集「夏の世の出来事」という記事のなかで詳しく説明しています。

     

    最近では殆どの人が自宅ではなく病院で亡くなります。私は叔父の遺体を病院から自宅に搬送車で運ぶのに同乗していましたが、その時はまさに叔父が一緒に同乗者として乗っているという感じがしました。その時車内では兄弟同士で葬儀の打ち合わせをしていました。当然話の内容は叔父に伝わっています。しかし肉体から抜け出たばかりの霊体は意識がまだぼんやりしているので詳細なことまでは分からなかったでしょう。

     

    自宅に連れて帰ってからお通夜までは全く何の反応もありませんでした。これは義父の場合も同様です。肉体から抜け出たあとは暫くの間眠りにつくようです。私の今までに見た範囲ではお通夜の事は覚えていないケースが多いのではないかと思います。しかし例外も数多くあることでしょう。

     

     病気で長い間苦しんできた人は休養の為に自然に眠りにつきます。事故死の場合もそのショックを和らげるための眠りの時間があるでしょう。この眠りの時間の長短は本人がいかに霊的に覚醒しているかによって決まります。霊的真理をよく理解し悟っている人の場合は死後直ちに目覚めが来るようですし、自分が肉体から離れていく様子さえも分かるようです。

     

    病院という所は実はとても霊的な所なのです。人が亡くなる時には肉体と霊体を結んでいるシルバーコードが切れます。それがスムースに切れるように霊界の医者やその人の親や霊的繋がりのある人達(全てこの世の人ではない)がその場で手助けをします。丁度子供がこの世に生れ出てくるのと逆の現象が起きているわけです(出産の時に臍の緒を切るのと同じ)。また手術などの時は必ず親やその他の人が来て見守っています。私の時も娘の時も霊界の父が傍に来てくれてじっと見守ってくれていました。医者がご臨終ですと宣言する時には実際には霊界からの医者や親たちもその場に同席しているということになるのです。

     

    この世の人は悲しみ、あちらの世界の人からはよく帰ってきたねと祝福を受けるという正反対のことが起きていることになります。最近はお産も病院でする人が殆どです。寺院や葬儀場など宗教的行事の場ではなく実際は病院においてこの世とあの世の行き来が行われていることになります。ですから病院はそういう意味で霊的な場所ということになりますが病院関係者も家族も社会もあまりそういう自覚はないようです。


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    祈り、瞑想

    2013.05.02 16:58|真理を求めて
     
          朝の祈りの間で。愛犬も神妙な顔になる。


    祈りと瞑想はワンセットで行うことが必要だと思います。どちらも一朝一夕に上達するものではありません。祈りとは神に自分の心の波長を近づけようとすることです。自分の向上と進歩、心の浄化を神の前で誓うのです。神は先刻こちらが考えていることは御存知ですが、自分の決意を神の前で誓うことによって志が一層明確化されることになります。その時は自分の全てを神に預けるという心境になっていなければいけません。

     

    そうすることによって清浄な気分になることが必要です。心身共に清浄な気分に満たされたところで瞑想をしてみます。慣れないとその時に雑多なものがビールの泡のように際限なく浮かんでくるものです。そこで最初は何かのシンボルを見つめるとよいでしょう。そのことによってあちこちに飛んでしまう自分の心を制御することが出来るでしょう。それでもダメならその日はそれ以上やっても意味がありません。

     

    自分にとって瞑想するに適した時間を見つけることも大切でしょう。一般的には早朝がいいと思いますが主婦の人は家事に追われ容易な事ではないかもしれません。実は今、ショパンを聞きながらこれを書いています。私はショパンの音楽を聴きながらこのブログを書くことも多いです。昔から著名な音楽家は霊界からのインスピレーションで作曲してきたのですからクラシックの名曲は霊界からの響きなのです。

     

    祈りと瞑想は日常的な意識から非日常的な意識への切り替えをすることです。それによって自分に内在するものを引き出す事が出来ます。それは大いなる自分であり神性を帯びたものでもあります。新たな自分を発見するきっかけになるでしょう。自分の向上を願うことが第一でありそうなれば自然に霊的能力も磨かれてくることでしょう。現代はとにかく機械文明によって人の本来の霊的能力は抑え込まれています。祈りや瞑想を続けることによって本来の能力が少しずつ目を覚ましてくるというわけです。