05 | 2013/06 | 07
    - - - - - - 1
    2 3 4 5 6 7 8
    9 10 11 12 13 14 15
    16 17 18 19 20 21 22
    23 24 25 26 27 28 29
    30 - - - - - -
    最新記事

    カテゴリ

    プロフィール

    大空澄人

    Author:大空澄人
    これまで自分の探求してきたものを 「いのちの波動」 というページ上で表現してきましたがPCのトラブルによりこのページに引き継がれました。一時的にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

    リンク

    最新コメント

    メール宛先

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    検索フォーム

    カウンター

    絵日記

    2013.06.29 16:16|日々の暮らしの中で
     

    私が小学校の2.3年生のころの絵日記を引き出してみました。ピンコという可愛がっていた猫が
    死んでしまった悲しみを書き記しています。あちらの世界に行ってしまった猫を連想しているところが 描かれています。 子供心にあちらの様子をイメージしていたのでしょうね。

    私は子供のころから常に犬や猫に囲まれて 育ってきたので動物が好きです。でも必ず別れは来ますが特別に愛情をかけていた動物は飼い主 が他界するまであちらで待っていてくれるそうです。そして飼い主が来たら誰よりも真っ先に飛びついて迎えてくれるのだそうです。ほかの人達が寄り付けないほどに。

    その後は飼い主と共に幸せに霊界で暮らしますが人間の成長のスピードは動物に比べて早いので
    ついていけなくなりやがては別れるのだそうです。その後は彼らはそれぞれの類魂のなかに戻って行くらしいです。
    動物は人間に愛情をかけてもらうことによって進化していくので人間には責任があるのです。
    やはり愛こそが宇宙最強のエネルギーなのでしょう。


    この日記は順序が逆になっていて下のものが最初にきます。


    P1030694.jpg








    続きを読む >>

    叔父からの通信

    2013.06.23 15:46|親族、友人の霊界便り
    人間は信念を持って生きること、そうしないとこの世に生まれてきた意味がない。この世は自分の強さが試される場なのだから。他人に迎合して自分を見失ってしまうようでは情けないことだ。そういう生き方をしていては後々後悔することになる。それからもう一つ大切なことは純粋であること、これが最後には勝つ。常に心を濁らせないようにすることだ。心の濁りは自分の価値をおとしめてしまうことになる。こちらからお前たちを何時も守ってやっているから。

    続きを読む >>

    何故苦しみがあるのか

    2013.06.21 15:36|人間は永遠に生きる

    P1030118.jpg 

    誰の人生も苦しみの多いものです。楽しい事や嬉しい事ばかりの人生であればいいのにと思うのが人情ですがそうはいきません。人は神の配慮によって苦しみを体験しそれを乗り越えて行くことによって成長するようになっているのです。歳を取ったから解放されるということもなく、何の悩みも苦しみもない人生はあり得ないのです。本当はこの世に誕生する前からどういう苦しみを体験するかということを自分で決めて承知の上でこの世に生まれてくるのです。そういう人生のコースを辿ることを指導霊のもとで決め、その人生を送るにふさわしい両親のもとで生まれてきます。生まれる国や場所も当然考慮に入れられています。日本人であったから再び日本人として誕生してくるということもありません。

    過去世において何か神の法則に逆らう事をしていた場合、そのカルマ(業)の清算がこの世でしか出来ないことが分かると自発的に再生(生まれ変わり)を望むようになるのです。勿論その事は今この世で生きている間は記憶に上って来ないので何故自分はこういう事で苦しまなければならないのだろうと疑問に思うのです。今地球上で生活している人の中でカルマの清算を必要としていない人はいないでしょう。特殊な使命を持っている場合は例外として何のカルマもなければわざわざこの地上世界に誕生してくることはないと思います。

    このように私達には苦しみの原因は容易にはわかりませんが何の意味もなく苦しみが生じる事はありません。もちろん明らかに自らの行為が招いたものであると分かるものもあるでしょう。深遠な神の法則が働いた結果、さらなる成長の為に苦しみを体験する必要があるから今の苦しみがあると捉えるべきでしょう。人は時間の経過とともにいつしか苦しみを苦しみと感じなくなってくるものです。そうありたいと思います。

    お釈迦様は苦しみの種類を分類し、根本的にそれらは人の執着の心から生まれているとして執着を絶つための方法を考えたようで、それが仏教の骨格になっているようです。すべてのものは実体がなく、移り変わっていくのでそういうものに執着しても仕方がありませんという論法のように思えます。

    しかしそういう論法にこだわり過ぎると何か新しいものを生み出そうという気力が失せてしまいます。新たな発明や発見は飽くなき追求心や情熱なくしては生まれません。またある程度の競争心も発奮材料として必要でしょう。時には衝突や闘争も生まれますがこれは人類がまだ成長途上で未熟ゆえの事でしょう。

    般若心経では無という文句がくどいほど繰り返されます。そんなに何もないんだったら生きていたって仕方がないじゃない? 人生にはあらゆるチャレンジすべきものが用意されていてそれらは成長のための材料だと思います。それらも本当は無いのです。人間が執着するからそういうものがあるように思えるだけなのだという態度は逃避的に思えてしまうのです。

    それは宇宙の深淵の声であり、極めて高度なものだから凡人には容易に理解できないのですよと言ってしまうと、なるほどと思う人もいるかもしれませんが本心から理解できないものが人の心を深く捉えることは無理があると思います。確かに般若心経には唱えていると鎮静作用はありますが最初から般若心経ありきで絶対的なものとして考えるべきではないと思います。

    こういえば熱心な仏教徒からお叱りを受けるかもしれませんが、それは本当にお釈迦様の言葉なのだろうか? お釈迦様の死後400年経って弟子たちがその思想をまとめ上げたというがそれは事実なのだろうか?内なる自分の心から湧き出る素直な疑問があるはずです。何事も先入観に支配されることなく疑ってかかることが人の進歩につながると思うのです。

    良心の声が神の声

    2013.06.17 13:50|人間は永遠に生きる
     


    私達には一人残らず「良心」という神のモニターが植えつけられています。人はその良心の声に従って生きるべきなのです。人生は絶えず右か左かを判断しなければいけません。その連続ですが、人は誰でも良心の声がこちらが正しいと言っているのにその場を取り繕う為に思わずその逆をやってしまうことがあると思います。そういうことをすると後で必ず後悔する時が来ます。最後の審判の場面で自分が為すべきことをしなかったことがわかり、自責の念にかられて苦しまねばなりません。人は良心の声に従って生きていれば決して罰せられることはありません。良心の声こそが神の声なのです。

     

    様々な宗教では教義というものがあり何やら難しい事が書かれています。仏教書を読んでも抽象的で分かりにくく、難解な事がさも高尚な事であるかのように表現されています。そういうことを知識で知っていても実践しなければ何の意味もありません。どの宗教でも説いている根本は同じです。

     

    自分以外の誰かの為に自分を生かすこと。困っている人がいたら自分の出来る範囲で助けること。

     

    エッセンスは単純明快です。これだけでいいのです。

    仏教ではすべての人に仏性が備わっていると説きます。神性と呼んでも同じです。この苦しみの多い人生を通じて自分の中の神性に目覚めることが私たちの人生の目的なのです。具体的には「良心の声に従い自分以外の誰かの為に自分を生かすこと」を日常生活で実践していけばいいのです。


    神と宗教

    2013.06.12 09:23|人間は永遠に生きる
     

    世界にはキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など様々な宗教がありますがこれらの大元は同じものです。それはこの大宇宙を創造、支配している原理であり、言い方を変えれば大自然の摂理なのです。天地自然の法則、神の法則と言い換えてもいいでしょう。その法則をインスピレーションを通して感じ取ったものをそれぞれの開祖が独自に体系付けたものが今地上にある宗教ということになります。

     

    それはそれぞれに違う事を教えているように見えますが根本は共通です。民族の気質や気候条件によって宗教の個性というものが出来上がっています。昔から宗教の対立が戦争に発展してきましたが、本当は違う事を教えているわけではないのです。

     

    仏教が発生したのは2500年前、キリスト教は2000年前、イスラム教はキリスト教の少し後です。その時代から比べて人類はどれ程進歩したでしょうか。釈迦がいた頃は教えを書き記す紙さえありませんでした。それよりさらに後の時代でさえ人は地球を中心に他の天体が回っていると思っていたし、船でどこまでも航海を続けていけば地の果てに到着し、そこは滝になっていて落ちてしまうと考えていました。

     

    今や地球人類は宇宙船を使って他の天体にまで到達できるようになりました。乗り物が発明され人は地球上をどこへでも移動できるようになりました。インターネットや携帯電話が出来て世界の誰とでも瞬時に情報交換が出来るようになりました。医療技術も飛躍的に進歩し昔は不治の病と言われたものでも治せるようになりました。我々は今そういう時代にこの地球上で生活しているのです。

     

    そこで今ある宗教というものを振り返ってみれば仏教にしろキリスト教にせよその当時から進歩というものが止まってしまっているのです。その宗教が説いているものは今でも間違っているわけではありません。しかし人類の知識の量と質はその宗教が出来た当時に比べて飛躍的に進歩しています。今の人類の求めるものははるかに高度なものになっているわけです。何かの疑問に対し小学生なら満足できるようなレベルの回答でも大人はそれでは満足しません。いわゆる伝統宗教というものはその伝統と格式にこだわるあまり新しい知識の吸収を拒んできたのです。

     

    死後人間はどうなるのか? 人は何のためにこの世に生まれてくるのか? なぜ人生に苦しみがあるのか?それに的確に答えられる宗教はありません。宗教も人類の進歩とともに進歩していかなければならないのです。基本は正しい事を言っているのですからその上に新しい知識を付加していかなければ時代から取り残されてしまうのです。

     

    実は20世紀に入ってから霊界から人類の意識改革の為に地上の世界に向けて啓示が降ろされるようになってきました。それは霊界の上層部で綿密な計画が立てられた大掛かりなものです。すでにそれらは書籍として発売されその気になれば誰でも読むことができます。「シルバーバーチの霊訓」はその代表的なものです。その特徴はこれまでと違って一人の教祖が現れて教えを説くのではなく私達一人ひとりに直接もたらされるようになっています。

    魂に受け入れ準備が出来た人から一人ずつ真実に目覚めるようになっています。目覚めてくれば自然にそういう書物に巡り合うように導かれていきます。また霊感のある人には直接啓示が入ってきます。一人一人が進化向上をしそれが世界規模で広がり全人類が成長、進歩していくように計画が立てられています。今やその教えは静かに世界中に広まりつつあります。決して目立つことなく少しずつではありますが確実に人の心の中に育ってきつつあるのです。

     

    このコラムはこの霊界からの教えを基にして私自身の人生体験を通じて実証された誰にも分かり易いものを取り上げて編集してみました。ここに書かれていることはその教えのほんの一部にすぎません。生前のお釈迦様や弘法大師の教えは絶対的なものでしょうか? 残念ながらそうではありません。彼らが活躍した時代においては先鋭的で偉大な人間でした。しかし彼らが活躍した時代の人々の知識のレベルに相当したものでした。

     

    時代が進んで人間が進歩してくるとさらに進んだものが求められるようになります。すると新しい時代に応じた知識が霊界から啓示されるようになります。それはその時代の人々の理解力より少し進んだものになります。進み過ぎたものは人間には理解できないのです。

     

    例えば釈迦や弘法大師の霊はこの世に再生していなければ霊界にいるでしょう。彼らは現在、霊界で当時に比べて飛躍的に進歩しているはずです。彼らは地上の人達が今も尚、当時の姿の自分を崇拝しているのを見てどう感じるでしょうか? いい加減で真実に気づいてくれよと思っていないでしょうか。

     

    人類は永遠に進化向上していきます。それは終着駅のないものです。これで終わりというものはありません。宇宙は際限のない進化向上を目指しているからです。その機構を作ったものが神ということになります。神とは人間の理解力をはるかに超えた無限の叡智です。目には見えず触れも出来ず、すべてのものに顕現し、人間の一つの細胞から巨大な天体まで、そして全宇宙のものを支配、統制しているのです。そして私たちが真に信仰の対象とすべきものは個々の偉人ではなく、ここに表現されている存在であり、それが唯一神と呼べるものなのです。

    先祖供養

    2013.06.11 09:05|人間は永遠に生きる
    P1030623.jpg 

    先祖に対してずっと供養を続けて祀らなければ、祟ったり家の中に悪い事が起きるなどと考える人もいるようですがそんなことはありません。彼らは法要をするしないに関係なく帰りたければいつでも帰ることが出来ます。時々帰ってきているはずですが家族は誰も気が付かないだけなのです。それも家族との間に愛が無ければ帰ってくることはないでしょう。家や土地にもすでに興味はありません。

    私の家を例にとってみると私の祖父は今までに一度も現れたことがありません。私は子供の頃よく祖父にたてついて叱られたものです。死んだらお前に取り憑いてやる(今思えば認知症になっていた)とまで言われました。子供心に取り憑かれたら恐ろしいなと思っていましたが、全くそういうことはありませんでした。一方祖母はたまに現れますが、無言で唯そこにいるだけという雰囲気です。前に私の娘はドアのところからこちらを見ていた祖母を目撃しています。これらの事を考えてみるとその家の先祖がいつまでも家や家族のことにこだわっているということは極めて稀なことではないかと思います。今そこで生活しているあなた達(私達)が良いと思うようにすればよろしいという雰囲気です。

    私のこれまでの人生を振り返ってみるとかつての小学校が廃校になり、そこは現在、公民館になって有効に活用されています。それを見てああ、昔は小学校があったな、懐かしかったなと思いますが、こんな事をして許せないなどとは思いません。むしろ思い出は思い出として取っておいて小学校の後が現在は有効に利用されていることに満足感を覚えます。50年少し前の事でもそうなのですから何百年も前にこの世を去った先祖が家や土地の事で不満を持ったりすることは考えられないことです。旧ページの死後の世界愛の心という題で義父の通信を載せたものがありますのでご紹介します。

    さらに遠い先祖はすでに違う世界にいてこの世の事は記憶も薄れ、関心がなくなっているのです。先祖も私達も一時期を地上の世界で暮らしますがその地上生活が同じ場所であったということで、それは永遠の人生という視点から眺めると極めて短い期間です。肉体的な家系というものは遺伝していきますが、各個人に宿っている霊は親子といえども実際は別のところから来ているのです。

    ですから先祖に対していつまでも法要をしたり供養を続けないと罰が当たるなどと考える必要はないのです。あちらはあちらで忙しくしているのですからそういう暇があったら自分自身の向上を考えるべきでしょう。それが本当の先祖供養というものでしょう。他界した人達は霊界主導であちらのルールで進歩成長していきますから私たちに出来ることは殆どないのです。考えてみればわかるように霊界に行った人達は我々よりはるかに進歩しているのです。地上世界は一番低いところです。高い所にいる世界の人たちに対してこちらの世界から指導や導きのようなものが出来るわけはないのです。 小学生が大人を指導することは出来ません。

    良く考えてみればそれはおかしなことだと思うのが自然でしょう。実際は私の父のケースのように地上の親族はあちらから指導されているのです。あまりこういうことを言えば熱心に先祖供養を勤めている人達からお叱りを受けるかもしれませんが霊的事実、生命の進化向上という観点から見ればそういうことになるのです。仏壇がある家庭が多いと思いますが、そこで手を合わせる場合は先祖に対して感謝の気持ちを表すことで十分だと思います。読経をするならばその中に感謝の念を込めることでしょう。

    我々がもし先祖の誰かを救済出来るとしたら自分の死を自覚できない人がいる場合です(それは先祖というより最近他界した人)。そういう人に愛の念を送ったり、霊的真理を語って聞かせることくらいでしょう。彼らは一時的にさまよっていたとしても時期が来れば指導霊に導かれていくようになります。結局あちらの事がわかっていない私達が出る幕は殆どないのです。

    死後かなり時間が経過すると地上の血縁よりも霊的な縁のほうが強いつながりとして現れてきます。霊的な縁はこの世にいる間はわからないようになっているのです。近代の心霊科学で類魂という魂のファミリーがあることがわかっています。私たちは地上で生活しながらもそこから支援を受けていますが気が付きません。一番私たちを親身になって支援してくれているのが守護霊ということになりますが、それは類魂のメンバーの一人です。あくまでも地上の血縁は長続きしないのです。夫婦といえどもお互いに愛がなければ霊界ではバラバラになってしまいます。

    日本では仏教と言えば先祖供養ということになっています。本来の釈迦の仏教は人の生きる道を教えるものでしたが中国や韓国を渡って日本に伝来する間に儒教の影響を受けて独特なものになりました。日本に古来からあった祖霊信仰とも結びついて奇形的な仏教になってしまったのです。大半の人は仏教について深く考える事もなく、昔から続いてきた因襲を守り続け、それが仏教だと思っているようです。

    霊界への旅立ち

    2013.06.07 09:08|人間は永遠に生きる
    P1020943_convert_20121128161704.jpg

    8.霊界への旅立ち
    恐れられている死というものは実際は新しい世界への誕生である事を述べました。新しい世界とは一体どういう世界でしょうか?霊界と言う言葉はすでに知られていると思いますがいきなり霊界に進んで行く人は稀です。何故なら霊界はある程度以上悟った人でなければその環境に順応することが出来ないのです。この世の煩悩を卒業し霊的に成長した人でないとそこで生活することは苦痛になってくるのです。そこでその一つ下の段階の幽界というところに行きます。

    幽界は何から何までこの世とそっくり、この世にあるものは殆ど何でもあります。幽界はこの世の垢を落とすところです。ですから中には自分が死んだことを自覚できない人たちがいるのです。食べ物や飲み物も揃っていてあまりにこの世とそっくりなので自分が死んだことに気が付かない人も多いのです。仕事をしなくていい、お金も要らない、自分の好みの家もありそこでゆっくり過ごす事が出来ます。

    確かに幽界での生活は快適ですが努力しなくても何でも手に入るような環境にいると人は退屈になってしまうのです。人は誰にも向上心があり現状に満足できなくなってくるのです。あたかも極楽のように思えた場所もしだいにつまらなくなってきます。そうなると次の上のレベル、つまり霊界に自動的に入っていくようになります。霊界には無数のレベルがあり、それがお互いに重なり合っています。人は向上するたびに上のレベルに上がっていきます。

    霊界の上の方は人間の想像を超えた世界であり、住民は互いに助け合い、愛と豊かさと喜びのなかで暮らすようになります。あるいは私たちの祖先のなかにはそういうところで暮らしている人もいるかもしれません。通常そういうところにいけるレベルに達するには長い年月を要します。観音様とかその他の仏様と言われるものはそういうところの住民を意味するのかもしれませんが、仏様は人間の想像の産物であり実際にいるわけではありません。それからも進歩というものは際限なく続き、もうこれで終わりという終着駅はありません。全宇宙のものは常に進化向上を目指して成長するように方向付けされているのです。

    9.要注意の幽界の最下層
    一般の善良な人は普通に幽界に進んで行きますが、中には幽界の最下層でうろうろする人がいます。それがいわゆる不成仏霊、又の名を地縛霊といいます。彼らはこの世に未練を残し過ぎたためにすんなり上の世界に行けないのです。日ごろから意地悪、欲深、わがままで人の迷惑を考えなかったような人間はそこで引っかかってしまうのです。金の亡者であったような人は自分の家の金庫の前で金庫の見張りをしたり死んでも金のことが頭から抜けないのです。

    一方殺人や凶悪犯罪に手を染め、死んでも反省することを知らない人間は地上をうろつき同じような思いを抱いた人間に憑依します。取り憑くという言葉のほうが分かり易いでしょうか。通り魔連続殺人事件やこの間の尼崎殺人事件、そして世に知られたオーム真理教事件などはこの種の地縛霊が事件の犯人に憑依し、その人間の精神を支配して様々な事件を起こさせたのではないかと思います。ですから日ごろから人を恨んだり悪知恵を働かせているような人間はこの種の地縛霊のえじきにされてしまうのです。それは自分がそういう邪悪な霊を呼び寄せているのです。彼らはそういう人間を探して取り憑き犯罪をそそのかし、その結果取り憑かれた人間は心身ともボロボロになってしまうのです。

    日頃から清く正しく生きているような人にはそういう悪霊は寄り付くことができません。日頃の心がけがいかに大切かということです。そういう悪霊の住んでいる領域は幽界の一番下の層でありこの世の人間社会よりレベルが低いところです。地獄というところがあるとしたら正にそこが地獄でしょう。そこの住民達は愛に乏しく常に争い、傷つけ合い、だまし合い、一時として平和な時はありません。仏教の世界で言われているような地獄は実際にはありません。閻魔大王も実際にはいません。あまり良いこともしなかったけど悪い事もしなかったという、平凡に人生を過ごしたような人はそういうところには行きません。

    瞑想の話

    2013.06.03 14:19|真理を求めて
    201305240638000.jpg 

    瞑想に入る前には何と言っても感情の動きを静めることが大切で、それが出来なければ進めません。簡単な事ではありませんが訓練を積めば何か嫌な事があったりしても感情を収めることが出来るようになるでしょう。それには最初に「自分の本質は霊(スピリット)であり肉体ではない」という観念をしっかりと植えつけることです。それが土台になっていることが大切です。それに最も適したものは「シルバーバーチの霊訓」をしっかりと読むことでしょう。その本の中で「あなたの本体は霊でありその肉体はあなたではありません」というフレーズが何回も繰り返されますがそれを読むうちに自然に身についてきます。

     

    瞑想に入って次のような気持ちになれたらかなり前進しているといえるでしょう。

     

    「今肉体を通して自己表現している私は自分という本体の一部に過ぎない。その大いなる自分がこの肉体を通して地上世界を探査しているのだ。今この身に起きていることは必然であり、自分の進化の為に必要だからそれを体験しているのである。重大な事のように感じるけどそれは永遠の人生の中のほんの一コマに過ぎない」。

     

    そして自分の本体であるスピリットとして身の回りに起きていることを観察してみるように努めます。それは結局物質の目から霊の目へと意識をシフトさせると言い換えてもいいでしょう。色々と気になる事があって振り回されているけど、そういうものは大した事ではないと思えてきます。そう感じる時はかなり高い意識の波動(バイブレーション)になっているといえるでしょう。そして霊界の人達と通じやすくなっています。

     

    そういう時に温かみや優しく自分を包み込んでくれるものを感じることがあるはずです。

    それは自分の指導霊や守護霊、そして他界した家族ではないかと直感的に感じると思います。とにかく温かくて優しいものを感じたらこちらも幸せな気持ちになってきます。

    そして彼らはこんなに優しくて心地よい存在ならば、死ぬことは少しも怖くない、むしろ早くあちらに行きたいとさえ思うはずです。

     

    霊的感性豊かな人ならその相手のイメージが目の前に浮かんでくることがあるでしょう。

    肉眼で見るのではなく脳裏に浮かんでくるという感じで、それは目を開けても閉じても同じです。そこで相手が何かを伝えようとしていることが何となく分かるような気がすると思います。彼らは発声器官がないので思念で伝えてきます。

     

    私の場合、相手は何を言いたいのかな?と思っているとしばらくしてそれが言葉になっていきます。結局テレパシーの伝搬ではないかと思っています。しかしそういうものが無くても温かみを感じるだけで随分満たされるでしょう。それは言葉で表現できない世界です。

     

    ポイントは如何に自分を高い意識に誘導していくかということで、その裏付けとなるものが自分とはスピリットであり肉体ではないという観念ではないかと思います。それは事実なのですからそれをしっかり認識し身に付けることが大切でしょう。

     

    瞑想の一番の目的は自分自身を高めることです。霊界の親族との触れ合いは二次的なものであり自然に身についていくものですから、急ぐことなく毎日の積み重ねが大切だと思います。

     




    自由への旅立ち

    2013.06.02 09:46|真理を求めて
     

    最近は家の特定の場所(神の間や仏間)にいなくても静かで清らかな場所に来たらすぐに瞑想に入れるようになってきた。そよ風の吹く景色のよい海岸、高台、山から海を見下せる場所、もちろん自分の気に入った神社もそうだ。日課となっているワンボックスでの愛犬の散歩中、海沿いの道で車を止めて休んでみたらすぐに体制が出来る。規則的に打ち寄せる波の音はとても良い。遠くに半島や瀬戸内海の対岸が見えるのもいい。そして誰も来ない。

     

    霊界にいる人達からのメッセージの受け方も変わらない。してみると人がどこにいようと常に霊的世界とつながっているわけで特定の場所は必要がないということになる。要は自分の意識の波長さえ整えることが出来たらいいわけである。あちらの世界から見れば元来、地理的条件には影響されないだろうから、こちらがどこにいようが関係がない。それは外国に行こうが地球の裏側に行こうが同じであろう。

     

    私にとっては神棚や仏間、寺や神社などは次第に必要がなくなりつつある。唯、意識の波長を変えるきっかけになるものがあれば十分だ。神は霊的エネルギーであり宇宙に普遍的に存在しているのだから神のいない場所はどこにもないわけで当然といえば当然であろう。私はこの世を去った後は自分の墓も仏壇も要らない(でも家の墓はあるが)。よく自分が死んだあとはどの墓に入ったらいいのか、配偶者と一緒は嫌だなどと話をしている人たちがいるが、人はこの世を去ったあとはそういう事を考えても意味がない。愛の無い配偶者とは同じ墓に入れても霊界ではバラバラになってしまうからである。

     

    最近自分の中の何かが自由を欲しているのを感じるようになってきた。もう仕事をしなくていいというだけで大きな束縛が取れているのだから、後は自分の出来る範囲内で余生を楽しみたい。暫くしたら海の向こうでこのブログを更新しているかもしれない。そういうことを感得するには海岸沿いの道に車を止めて瞑想するのはとてもいい。