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    大空澄人

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    今見ている世界は大きな自分の一部

    2013.08.30 04:31|インスピレーション
    IMG_0354.jpg  

    今あなたが見ている世界はあなたの人生の一コマにすぎません。それが全てではありません。
    しかし今の体験があなたという存在を構成するパーツの一つになります。今はそれを作るための作業をしているのです。

    人のこの世の人生は短いものです。その後も人生は永遠に続き、終わりはありません。今はこの世という物質の世界でそこでしか出来ない貴重な体験学習をしているのです。その体験があなたという人格を作る上で欠かせない要素を作っていきます。何一つ無駄なものはありません。意味の無い体験はありません。

    今は何故こんなに苦しまなければならないのか?何故人の世はこんなにも理不尽なのかと思うことがあるでしょう。でも必ずいつかその理由が分かる時がくるでしょう。視野が格段に開け、今見ている世界が極めて限局された世界であったことがわかるでしょう。それはおそらくこの世の人生を終えてからになるでしょう。今、あなたが見ている世界は大きな自分の一部分に過ぎないと同時に欠かせないパーツなのです。

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    生命の進化と迷信、宗教

    2013.08.24 08:17|真理を求めて


    昔から狐や蛇が人間に祟るという話があり、また蛇や狐を祀っている寺社もある。蛇を祀っているところは病気回復のご利益があるということで参拝する人達もいる。それら動物の霊は人間に影響力を持っているのだろうか?霊的事実から考慮すると、それらが人間に影響を及ぼすことは考えにくい。動物は死後その類魂のなかに帰還してしまうので個別意識を持ち続けることは殆どないはずである。地球上の生き物の中で死後も変わらず個別意識を持っているのは人間だけらしい。

    例外として飼い主との強い愛情で結ばれている場合、飼い主が他界するまで個別意識を持ち続け、主人が霊界(幽界)に帰ってくると一緒に暮らすという。私は前に父とかつての愛犬があちらで一緒にいる夢を見たこともある。そうやって人間に愛情を注がれた動物もいずれは類魂の中に帰っていくらしい。そうして一つの個体がその類魂全体の進化に寄与するというわけである。進化した類魂の中から人間として地上世界に現れてくる個体がいるということである。

    以下はシルバーバーチの霊訓から抜粋したものである。
    「私達もかつては人間ではない媒体に宿っていた。様々な媒体に宿りながら自分を進化させつつ媒体も進化させてきた。私たちはかつては犬をやっていたかもしれない。霊にとっては自身を進化させるのみならず、媒体(それぞれの肉体)も進化させてきたのである。そして人類の肉体はほぼ完成の域に近づいている。これからはその霊性を進化させなければならないが今の人類のレベルはこの宇宙生命系の中でビリに近い。すべての天体に生命体がいるが地球人類とはバイブレーションが違うので人類にはそれが認識できない。あの世の存在が認識できないのと同じである」。

    私達がこの世に来る理由は自分を磨く為であるが、もう一つの目的はそれぞれの種族の物的個体(肉体)を進化させるためでもあるのだろう。それは意外と忘れられていると思う。肉体を進化させることも人類の命題であったのだろう。そしてそれはほぼ完成の域に近づいているという。

    人間が動物に愛情を注ぐということは類魂全体の進化に寄与するので神の御心に叶うというわけである。逆に動物を虐待するようなことをすれば類魂の進化を妨害し、神の御心に反することになるので罰を受けなければならないのである。

    蛇などの爬虫類や野生の狐などは直接人間の愛情を受ける機会はなく、死後はすぐにその類魂の中に帰っていくらしい。狐や蛇などの霊が人間に影響を及ぼすようなことは霊的事実からしてあり得ない話であろう。人と動物は波長が違うので憑依現象が生じたりすることは無いと思う。憑依は同じ心の周波数のもの同士が共鳴することであり、人の霊と爬虫類の霊とでは次元が違いすぎる。
    この世でも同質のものは引き合い、異質なものは離れて行くが霊の世界でもそれは同じであろう。

    先にも説明したように、もしある人が動物を虐待していたとすれば神の摂理によってその人は自らの行為に対して償いをしなければならなくなるのである。あの世に行った動物の復讐心が働いて自分の身に歓迎せざることが起きるのではなく、自分の行為が摂理に反するものであったからそういう結果を招くのである。時々蛇や狐など動物霊に祟られると言う話を聞くが、もし祟られている(憑依されている)としたらそれは蛇や狐ではない。本当に祟られているとするならば相手は人間の地縛霊であろう。

    何かを信仰するなら自分の理性と良心の声が納得出来るものでなければならないと思う。一番確かなものはそれなのだから。人は一人残らず自分の中に神を宿しており、それを見出し磨きをかけ、少しでも我々を創造した神に近づくことがこの世に生まれてきた目的であり、それが真の宗教であろう。 そしてその妨げとなるような迷信を解き明かし、すべてのことは神の摂理の範疇にあることを理解することが大切ではないだろうか。

    神の摂理と信心 4

    2013.08.21 08:27|真理を求めて


    自分が強く心に念じることは時として一つのイメージを作り出し、そこから一つのエネルギー体が出来るのではないだろうか。人間の思念の力は侮れない力を持っているようだ。見えない世界では思念の力によって常に何かが起きていることになるので自分の心に思うことは十分に注意を払う必要がある。

    時々写仏をしている人を見ることがある。写仏は仏の姿を複写していくものだがイメージを焼き付ける一つの方法かもしれない。しかし実際にはその基になっている仏の絵を描いた作者からのエネルギーを吸収することになっていると思う。絵画等はその前に行くとその作者のエネルギーが放出されているのを感じるものである。美術館は霊的エネルギーに敏感な人が行くとそのエネルギーを受けて疲れるものである。

    写経も内容はよくわからなくても、ありがたいとされる経文を写してそのエネルギーと波長を合わせようということかもしれない。写経や写仏は自分の心を鎮めてニュートラルな状態にするにはいいかもしれないが、これは本当に釈迦の語った言葉なのか等と、内容に疑問を感じながらやっても意味はないだろう。経文自体を崇拝し本当に仏の言葉であると思い込めばそれなりの信仰による力が現れてくるかもしれない。

    次に述べることは日常の私たちの生活の場にはあまりに縁遠い話であるが、地上の生命体は高級霊の思念によって創造されたという。進化したスピリットによる強力な思念の力は新たな生命の形態を創造するという。この地上世界の植物や動物は高級霊によって創りだされたという。神の創作といってもいいかもしれない。その中には害虫など我々にとって好ましくないものもいるが、それさえも偶然に発生したものではなくそれなりに存在意義を持っているのだろう。

    日本神話に登場する素盞鳴尊は地球神の一柱であり造化の神とも呼ばれている。その見方が正しいのかどうかわからないが我々の想像を絶する叡智と力がこの地球環境を創り、制御しているのだろうと思う。あまりにスケールが違うが我々一人ひとりにも思念のパワーが潜在しているようだ。

    私たちの願望が実現するにはとても大きな労力を要する。思念のパワーが最後に物質世界において具現化するには時間がかかる。抵抗勢力と戦わなければならないこともある。それが物質の世界の特徴であろう。

    神の摂理と信心 3

    2013.08.16 02:58|真理を求めて


    前にも述べたように人が信心の対象を持ち、そこに全幅の信頼を預けられるようになると奇跡とか日常の常識を超えたようなことが起きるようになる。自分はやるだけのことをやりました、後はお任せしますという心境になると自分へのこだわりが減ってくる。 自分に対するこだわり(我といってもいい)が強すぎると1人よがりになりがちである。そこで誰か自分の親のような存在がいて何かと面倒を見てくれるなら何と心強いことだろうか?

    しかしあまりにそういうものに依存してしまうと自分の努力を放棄してしまうことになりかねない。やはり人間は自分の力で人生のあらゆる問題を解決しなければならず、それなしには進歩、向上は望めない。自分の守護霊や指導霊は決して問題解決の方法を直接教えたりはしない。信仰心は尊重しなければならないが、やはり根本の原理原則(神の摂理)を正しく理解した上でなければならないと私は思う。

    人間には思念の力によって自分の心の中にあるものを実際に創りだす能力があるようである。懸命に一つの対象物に向かって意識を投影していくとそういうものが実在するように見えるのだろうと思う。 自分には実際に見えているが他に人には見えない。観音様、不動明王、その他の仏教の諸天、あるいは天狗や蛇などが見えるというわけである。私の場合、観音様や不動明王、弘法大師の姿が見えていた時期があった。それは今でも意念を集中すれば見えるだろう。

    旧ページのお釈迦様のメッセージというテーマのコラムで釈迦からのメッセージというものを載せている。勿論お釈迦様からメッセージを受けたなどと公言するつもりはなく、唯、実際にあったことをそのまま載せただけなのだが、その頃家にある釈迦如来の仏像に向かって意識を集中すると若々しく溌剌とした人物像が常に見えていた。この場合は観音様や不動明王の場合と少し違いがある。観音様や不動明王が殆ど仏画に表されているイメージ通りであるのに対してお釈迦様として抱いてきたイメージとは全く違いそれまでに見たことのない顔と雰囲気を持っていた。その違いの原因はわからないがお釈迦様と言えば仏画に描かれている姿をお釈迦様と思っている人が多いと思う。

    感性(霊的感性)豊かな人の場合、他の誰かが思念を集中して生み出したものが見える事があるようだ。そういう現象が起きる原因として次のようなものが考えられるだろう。熱心な行者が心に不動明王を念じて行を続けるとこれまでに説明したような現象が生まれやすいだろう。意識を照射する対象が別の仏でも同様であろう。行を積んだ場所にそれが発生してエネルギーとして残っていると後でそこを訪れた霊感のある人の目に触れることになる。そうするとあそこには本当に仏様がいるとか天狗がいる、あるいは蛇、狐がいるということになりはしないだろうか。

    そこであそこの寺社や聖地に行けばご利益がある、本当に神仏がいるという評判が出来る。さらにそれを聞いた人たちが来て拝むことによって一層そのイメージがその場に焼き付けられる。そしてその後も現世ご利益を期待して大勢の人が参拝に来るようになるかもしれない。しかしそこにはここで述べたような現象が起きている可能性があることを理解していたほうがいいと思うのである。

    神の摂理と信心 2

    2013.08.13 08:32|真理を求めて


    熱心にある神仏を信仰していくと実際にその神仏の姿が現れることがある。私の場合を例に取ると過去何年にも渡って観音様を信仰していた事があった。西国巡礼は観音霊場で歴史があり今でも多くの巡礼者があって全国的にも名の知れた寺が揃っている。巡礼の時、次の霊場が近づいてくると観音様の姿が見えてきたものである。

    どこの寺でも本尊があり不動明王を祀っているところも多いがそこに行くと不動明王の姿が見えていた。見えるというのは肉眼(五感)で見るのとは違う。五感は物質を感知するものなのでそれ以外のもので見ていることになる。目を開けていても見えるし閉じていても見える。

    私の娘や姪にもそういう能力があるようで、姪はある寺に入ったら大蛇が見えて恐ろしかったと言う。その寺は昔から蛇にまつわる伝説があるらしい。事実日本には蛇を祀っている寺社も多い。
    なぜそういうものが見えるのだろう。本当に神仏やその他動物の化身のような存在がその場にいるのだろうか?

    今から9年前の夏、私は無謀にも次男とともに北穂高岳に登ったことがある。山登りに慣れていないので自分のペースを掴めずに高山病にかかってしまった。昼前後に山頂に着いたが頭痛と吐き気が治まらず水も飲めない、食事もとれないという状態が翌朝まで続き、素晴らしい山の景観(北穂高岳からの景観は北アルプスでも最高)に浸る事もできず山頂直下の山小屋で寝たきりの状態が続いてしまったのである。次男はこの時もう救助のヘリでも呼ぶ以外方法がないのではと思っていたらしい。

    夢うつつの状態で私はひたすら観音経を唱え続けた。一晩中それを続けたのである。翌朝、台風接近のために全員山を降りなければならなくなった。私といえばその朝も水はおろか米粒一つも喉を通らない。脱水もひどく相当に危険な状態になっていたと思うがここで休んでいるわけにはいかない。意を決して私はガスがかかって視界も悪くなった山を下り始めた。岩場なので一つ足を踏み外せば大怪我につながるし転落死の可能性もある。再び観音経を心のなかで唱えながら下山を続けて何とか涸沢までたどり着いた。標高が下がり高山病の症状も嘘のように消えていた。

    涸沢の山小屋で山菜そば、コーヒー、アイスクリームなどを食べてやっと生気を取り戻すことが出来たのである。あんな状態で山を下りられたのは観音様に守られていたからに違いないと思わざるを得なかった。そして家への帰路、滋賀県の大津にある三井寺(観音霊場で西国巡礼の札所)に寄り、観音様にお礼参りをしてそれを契機に西国巡礼を始めることになったのである。

    極限の状態で観音様など神仏を心に思い描き、祈りを続けると自分の中に一つのイメージが焼き付けられることになる。この時の体験で私の潜在意識には観音様のイメージが一層深く植え付けられたと思う。そしてそれが最初に挙げた神仏が実際に見えるという現象を起こすエネルギーの基になったのであろう。 それは今の科学では解明できないだろうが、当人には確かに存在していると言うしかない状態であり、その説明は次の機会に譲りたい。

    次回に続く

    神の摂理と信心 1

    2013.08.09 04:11|真理を求めて


    何かの宗教の熱心な信者であったにもかかわらず災難や思わぬ事故にあったりするのはどうしてだろうという疑問はよく耳にするものである。特定の神や仏を信仰すればその神や仏は自分を人生の荒波から守ってくれるのだろうか?そう信じ込むことによって心の安定が保たれるのであればそれも悪くはないかもしれない。但し盲信してしまうのはどうだろうか?

    もし特定の宗教を信心していれば神から特別な計らいを受けることができるならこんな便利なものはないだろう。残念ながらそういうことは決して無いのである。人間の作った宗教を信じようが信じまいが等しく全人類に神の法則(摂理)が適用されるのである。そこには一切の目こぼしはない。熱心な宗教の信者であろうが無宗教者であろうが関係がないのである。そして無宗教者だから死んだらいいところへ行けないということもない。

    神(天地自然)の法則は機械的に自動的にコンピューターのように正確に働くのでそこに特定の要素を挟む余地はないのである。真言(マントラ)を何万回唱えようと、徹夜で読経をしようとその法則の働きに影響を与えることは出来ないのである。その働きは宇宙の万物をその秩序でもって統制するようになっているので個人的感情や希望的観測は通用しないのである。だからといって法則は冷酷無比なものではない。一切の不公平はなく(生死を超えて見ることが必要)、それによって本当は誰も不利益を被ることはないように出来ているのである。今だけを観察してみてもそれは当然わからない。

    今でも経文や宗教的儀式が特別で神秘的な力を持ち神のご利益を受けられると考える人は多いかもしれないが、実際はそういうもの自体が特別な力を持っているわけではないのである。 私は一時はマントラや読経に神秘的な力が秘められていると信じていて懸命にそれを続けたものである。海外に行く飛行機の中でさえ経本を開いていたのである。そういう努力は無駄に終わったわけではなく次のステップへの足固めであり、真理探求への実地検証という意味があった。そういうことはその時には分からず後で分かるようになっているものである。それはむしろ分からないほうが都合がいいのだろう。途中の一つの階段でしかないと思っていては真剣さを欠いてしまうからである。人生のあらゆる体験がそうであろう。

    同様に死後、自分のこの世での人生を振り返ってみればあらゆる出来事や体験のほんとうの意味が分かるのだろう。現時点で無理して分かろうとする必要はないと思う。

    次回に続く

    盆に寄せて

    2013.08.05 08:52|真理を求めて
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    今年も盆が近づいてきた。 盆とは何なのか? 私の子供時代、盆の墓参りはこの地方の風習で14日の早朝に行くことが決まりとなっていた。子供にとっては朝早く起きるのは辛いことであり、
    眠い目をこすりながら両親について墓まで歩いて行ったものである。

    先祖が家に帰ってくることを想定して前夜(13日の夜)に家の廊下に灯りのついた提灯を吊るす。 夜中に先祖が帰ってくることになっているので明るくして迎えるというわけである。そして夜が明けた14日の朝墓参りに行く。 しかしよく考えてみたらそれは辻褄が合わないように思える。

    先祖はすでに家に帰っているから墓はもぬけの殻ではないか、では何をしに墓に行くのかという疑問が湧いてくるのが自然であろう。その13日提灯を吊るして先祖を迎えるという夜、私と妻は仏壇の前で読経を始めた。前のホームページでもその夜の出来事に触れたことがある。

    読経をしていると一陣の風が吹いてきて燈明が揺れるとともに目の前を黒い影が横切っていった。
    そしてパキッ、ピシッという大きなラップ音(何もない空間で鳴る音)がそれまでになく連続して響き渡った。
    背筋がゾクッとして鳥肌が立ってくるのを覚えたが読経をやめることなく最後まで唱えた。
    犬が何かを感じて吠えている。

    霊的に鈍感な人の場合こういう現象は起きにくいと思う。そういう音を発生させるためには霊媒体質者が必要でスピリットはその人間からある物質(エクトプラズム)を抽出するのだという。それを利用して何もない空間で音を出すことができるらしい。なんの目的でそうするのか、それはスピリット(霊)側が何らかの意図を持っていることは間違いない。一番多いのは自分たちの存在を知らせようとしているケースだと思う。

    この体験から半年後くらいから私は様々なメッセージを受けるようになった事を考えるとそれは霊界側のある計画に基づいたものではなかったかと今になって思う。そういう現象を起こすことによって霊の実在を身をもって認識させ、次にはメッセージや啓示へと進んでいく為の土台作りであったのかもしれない。其の夜のことは今でも鮮明に覚えているがスピリット側は一人ではなく何人かがいたような気がしている。

    再び盆の習慣の話に戻るが、私は真理の探求を始めるまではそういう習慣の意味を考えたりはしなかった。大半の人はそうだろう。余計な疑問を持ったりすることはなく、今までそういう習慣を続けてきたから続けているだけということになるだろう。それは言い方を変えると関心が無いということでもある。

    人は関心があるから疑問が湧いてくるのであり、無関心であれば疑問が湧いてくることはない。
    何事も疑いの目を向けてみることが進歩、向上の原動力になると思うが、こと宗教的な分野になると思考が止まってしまう人が多い。目に見えない分野なので考えることすら面倒臭いということかもしれない。下手に習慣を変えたり余計なことをしたりすると世間の目が気になる。また先祖が祟ると考える人もいるだろう。

    ともあれ盆が近づき盆休のために帰省ラッシュも起きる。国民的行事ではあるが先祖や近々他界した家族の人たちは実際はこの行事をどのように考えているのだろうか。そういうことを考えてみてもいいのではないだろうか。

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