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    読経の真実

    2013.05.28 09:32|インスピレーション
     

    お経は霊的なものではありません。地上の人間が考え出したもので霊界からのインスピレーションで出来たものではありません。意味のはっきりしない誰かが作った言葉を繰り返しても高級霊が感応してくるわけではありません。自分自身の言葉で素直に自分を表現したほうが余程意味があります。書かれているものを棒読みしても自分の心は伝わりません。

     

    神に、守護霊に、他界した家族に自分自身の言葉で意思を表現するほうが余程効果があります。読経は自分の心を静めるにはいいでしょう。しかしそれ自体が何か特別な力を持っているわけではありません。あなたも霊、あなたが自分を訴えようしている世界も霊の世界であり本来同質です。その間をつなぐものは直接の思念の交換です。




    追伸
    般若心経は日本人に最も知られ親しまれているお経でしょう。しかしその意味が分かりにくいものとなっています。その意味を解読した本が今までに何冊出されているでしょうか。作者が自分の解釈で書いているようで、内容はそれぞれです。しかし素朴に考えてみたら意味がよく分からないものが果たして人の心の救済になるのかという疑問が湧いてくるはずです。人間は内容を理解できないものは自分のものにはならないからです。

    昔からお経は意味が分からなくても御利益があるから疑問を感じることなく唱えていればよいという考え方があって私も一時はそうかと思っていました。しかしやはりそれはおかしいと思います。最初から般若心経を絶対的なものと捉えてしまうとそうなってしまうのです。初めに般若心経ありきで以後の思考が停止してしまうのです。

    同様に今社会で行われている宗教的儀式も一度ピュアーな目で見てみたらどうでしょうか。例えば葬儀の時に僧侶が仰々しい衣を脱ぎ捨てて普段着で現れたらどうでしょうか? 寺院に行くと仏像その他の飾り物がぎっしり詰まっています。いかにも仏が降臨しそうな雰囲気に仕立て上げられています。護摩を焚いていると炎の中にいかにも不動明王が現れてきそうな雰囲気になっています。そこはこの世を超越した霊界への入口でしょうか?

    それらの舞台装置を全部外してみたら何が残るでしょうか? その舞台装置は全て物質世界のものであり霊界がそこに顕現しているのではありません。般若心経にも同様の目を向けてみたらどうでしょうか。固定観念や飾りを見てそれを真実のものと勘違いしていないでしょうか。

    コメント

    こんにちは。遺影に向かって、生前とかわりなく話しかけています。車の中でもです。公共の場では心の中ですが。 朝はおはようからはじまります。確かに読経は、わかりません…自分を正すためのものですね!!何かと形に拘りますからね!!仏飯も供えるのが、毎朝切ないです。時々娘が生前使ってた食器を使います。 あまり隔たりをつくりたくなくて…。

    No title

    静さん
    私は10年位前は中毒といっていいくらいお経を唱えまくっていました。四国や西国巡礼はいうに及ばず散歩の時にもお経を唱えながら歩いていました。するとある家の前を通りかかるとそこの犬が中から吠え付いてきたことがありました。当時は般若心経が宇宙に通じ諸天、諸菩薩に感応するというようなことを書いている本もあり、探究心旺盛な私はそれを本当かどうか確かめたかったのです。巡礼先の寺の本堂で私が読経をしていると他の参拝者が私の読経をじっと聞いている様子がうかがえ、自己満足に陥っていたのです。あなたは僧侶になればいいのにと言われることもありました。

    それから年月の経過とともに私のお経に対する考え方は変わりました。あれは仏教の教えを身に沁みこませて自分の心を禅定の状態にもっていくものと今では解釈しています。もちろん葬式の時に読経をしても死者がその意味を理解し、導きを与えたりするものではありません。

    今では私は読経は殆どしません。たまに観音経などをなつかしく思い、唱えることがある程度です。このインスピレーションは実はパソコンの伊勢神宮の写真を見ていてひらめいたものです。私は今では形にこだわることはしなくなりました。葬儀に出て読経を聞いていて体が冷え冷えとするので、空しくなりそっと会場から出ることもあります(失礼とは思いますが)。他の参列者の状況を見ると居眠りをしたり、気もそぞろでぼんやりとほかの事を考えているような人が多すぎます。実態はそんなものです。


    読経ですべての時間を費やすより遺族が一人ひとり自分のメッセージを読み上げればどれほど感動的な葬儀になるでしょう。他界しようとしている人にとってもそのほうがよほどうれしいと思います。意味の分からないものを長々と聞かされても仕方がないのです。義父の葬儀は家族葬にしてそうしましたが素晴らしいものになりました。

    大切なことは自分の心のありようです。それが全てと言っていいでしょう。形式は二の次です。




    伊勢神宮の写真からそう思われたのですか。霊的エネルギーを添えられてる大空様だからこそですね。朝主人が読経するものですから、一緒に横に座ってますが、自然と覚えていくものですね。でも娘にとって、父母が手を合わせてくれてる姿は、伝わりますね!!主人は、どうしても形に拘りますからね!!私は、心の中で、ガンバロ!!ありがとう…です。お義父様の家族葬理想ですね。それが本来の姿だと思います。また故人に伝わりやすい気がします。 主人の実家に入りましたら、檀家を辞めたいですね!!主人の生前は無理ですが!! 少し話しがズレました。これからの時期、鬱陶しい日々が続きますが、お身体ご自愛なさってください。ありがとうございます。

    おはようございます。

    私も、一時期、般若心経に特別の功徳があるように思って、繰り返し唱えたり、写経をしたりしていた時がありました。

    古刹、名刹と言われるお寺を回って、御朱印を集めたり・・・。

    そんなことをしていると、ありがたい御利益があるように思っていたのでしょう。

    この頃は、ごくたまに、気が向くと唱えるくらいです。

    なぜそうなったかは、よくわからないのですが、形だけのものに、こだわらなくなってきたということでしょうか。

    No title

    ゆきこさん
    おはようございます。今新しい記事を更新したところですが、丁度ゆきこさんの問いかけに対応したものになっているようですね。

    私も10年位前には四国や西国を巡礼してそういうものにこだわっていました。
    でも今もしそういうところを訪れてもそういうものが欲しいとは思わないでしょう。
    この辺では巡礼のときに収めたお札を棺の中に入れる習わしがあり、遍路さんが入れた
    お札入れの中の札を一杯集めてきて入れています。

    本当に理解力が芽生えてくればそういうものの真の意味がわかるようになってくるので
    自然に必要としなくなるでしょう。分からないうちは怖くて捨てられないのです。
    分かるまでは実体のないものを実体があると思っていただけということになるでしょうか。
    結局般若心経が説いている世界ですね。色即是空ということになるでしょう。
    人は必要がないものを捨てていくことによって成長していくものと思っています。
    ずっと前に西国巡礼で感得したメッセージがありましたのでご紹介します。

    「人は過去のものを全て持っていては前に進めなくなってしまう。不要なものは捨て去らねばならない。

    物事を理解するにはそれにふさわしい時期というものがありその時が来なければ本当に理解することはできない」。


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