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    神の摂理と信心 1

    2013.08.09 04:11|真理を求めて


    何かの宗教の熱心な信者であったにもかかわらず災難や思わぬ事故にあったりするのはどうしてだろうという疑問はよく耳にするものである。特定の神や仏を信仰すればその神や仏は自分を人生の荒波から守ってくれるのだろうか?そう信じ込むことによって心の安定が保たれるのであればそれも悪くはないかもしれない。但し盲信してしまうのはどうだろうか?

    もし特定の宗教を信心していれば神から特別な計らいを受けることができるならこんな便利なものはないだろう。残念ながらそういうことは決して無いのである。人間の作った宗教を信じようが信じまいが等しく全人類に神の法則(摂理)が適用されるのである。そこには一切の目こぼしはない。熱心な宗教の信者であろうが無宗教者であろうが関係がないのである。そして無宗教者だから死んだらいいところへ行けないということもない。

    神(天地自然)の法則は機械的に自動的にコンピューターのように正確に働くのでそこに特定の要素を挟む余地はないのである。真言(マントラ)を何万回唱えようと、徹夜で読経をしようとその法則の働きに影響を与えることは出来ないのである。その働きは宇宙の万物をその秩序でもって統制するようになっているので個人的感情や希望的観測は通用しないのである。だからといって法則は冷酷無比なものではない。一切の不公平はなく(生死を超えて見ることが必要)、それによって本当は誰も不利益を被ることはないように出来ているのである。今だけを観察してみてもそれは当然わからない。

    今でも経文や宗教的儀式が特別で神秘的な力を持ち神のご利益を受けられると考える人は多いかもしれないが、実際はそういうもの自体が特別な力を持っているわけではないのである。 私は一時はマントラや読経に神秘的な力が秘められていると信じていて懸命にそれを続けたものである。海外に行く飛行機の中でさえ経本を開いていたのである。そういう努力は無駄に終わったわけではなく次のステップへの足固めであり、真理探求への実地検証という意味があった。そういうことはその時には分からず後で分かるようになっているものである。それはむしろ分からないほうが都合がいいのだろう。途中の一つの階段でしかないと思っていては真剣さを欠いてしまうからである。人生のあらゆる体験がそうであろう。

    同様に死後、自分のこの世での人生を振り返ってみればあらゆる出来事や体験のほんとうの意味が分かるのだろう。現時点で無理して分かろうとする必要はないと思う。

    次回に続く

    コメント

    大空さん、こんにちは。


    私も、以前は般若心経を暗唱して、ことあるごとに唱えたり、実家が浄土真宗なので、仏説阿弥陀教を詠み、嫁ぎ先が日蓮宗なので、法華経の経本を買い、法華経について調べたりしました。

    それぞれの宗派の本山級のお寺に何度か参拝し、お説法を聴いたり、それなりのお布施を包んで、読経してもらったりもしました。


    それらのことで、慰めはあったかもしれません。
    でも、因果律には、まったくと言っていいほど、関係なかったと思います。


    シルバーバーチの本で、シルバーバーチがキリスト教の間違っている点を、指摘しておられてましたが、キリスト教のことは、聖書も読んだことがなく、よくわからないのですが、なるほどと思ったことがあります。

    死の床で、牧師を呼んで、罪の告白をし過去の悪行を懺悔したからといって、たちどころに天国にいけるわけがないと。
    紋切り型の祈りの言葉をどんなに唱えても、何もならないと。

    そのようなお話しだったと思います。


    同じように、どんなにお念仏を唱えようと、どんなに立派な戒名をつけようと、遺族が盛大な葬儀や法要をしようと関係なく、因果律は正確に働き、その人の霊格にふさわしいところにしか行けないので、この世のようにごまかしが効かないということになるのかなと思います。


    話しは変わるのですが、お盆は仏教の行事なのかと思っていましたが、他の仏教国には、ないようです。

    日本の風習のようなものでしょうか。

    No title

    ゆきこさん

    色々と勉強されてきたのですね。それまでの努力がなければ真実への道は開けなかったと言えるのではないでしょうか。私も同じです。

    自分が実際に体験し、比較検討してみて初めてわかるものですね。もし私に仏教の世界の体験がなかったとしたら霊的真理への道が開かれることはなかったでしょう。そして仏教の世界は私にとっては過ぎ去った過去の風景になりつつあります。

    仏教もキリスト教も形だけを追求しても肝心の中身を理解していなければ無意味なものになるでしょう。以前にある僧侶が私に次のことを言っていました。方便を真義と勘違いしている僧侶が跋扈しています。

    盆や彼岸の風習は釈迦の仏教においてはなかったと思います。仏教が中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わるときに儒教の影響を強く受けたものでしょう。戒名も同様でしょう。釈迦の仏教には先祖供養などはなかったはずです。墓や遺骨などへのこだわりもなかったと思います。本来の釈迦仏教の思想からすれば今の日本の仏教は先祖供養ばかりが強調される奇形的なものになっていると思います。

    因果律の働きは霊の実在への理解がなければ実感しにくいかもしれませんね。
    自分は霊であり今の肉体は借り物であるということは口で言うのは簡単ですが
    本当に心の底から理解するには時間がかかることだと思います。

    No title

    大空さん、残暑お見舞い申し上げます。
    しばしの雑談をお許しください。

    私は、10年前にA氏とB氏のご両名から神の真理を教えていただきました。
    A氏は、「霊界は、一段階上がるにも相当な時間と修行を要する、波動によって区別された厳しい階層社会なので、人間として生きているうちにできるだけ心の波動を上げておくことが望ましい。心の波動が高くなれば、求めなくても超能力、幸運が出現します。」と、おっしゃっていました。
    B氏もまったく同じことをさらに詳しく、「一日に数時間、自分自身への見返りを求めない奉仕の行為を続けること。これにより確実に4番目のハートチャクラが開く。すると連動して3から1のチャクラと5から7のチャクラも自然に開く。そうすると自分自身の霊能力も出現するし、また自分自身が高級霊の通道として、奇跡と呼ばれることが起きる。」と、おっしゃっていました。
    そしてA氏は、まさにこのことが般若心経の言わんとすること。つまり、「色(物質)は、空(エネルギー)によって創造され、空(エネルギー)は色(物質)に変化するという意味であり、アインシュタインが唱えた相対性理論と同じ。
    強く念った心のエネルギーは、潜在意識の働きによって物質化、現象化する。
    潜在意識は空の世界なので、運命を創り出す場所であり、潜在意識にインプットされた情報(親切、謙虚、奉仕、感謝、明朗、素直などの良い念、又は怒り、憎しみ、恨み、悲しみなどの悪い念 )によって3次元世界に物質化=良い運命又は悪い運命を創る。
    人間はもともと素晴らしい宝(上記を含んだ霊能力)を内在しているのだから、早くそれを見出して生きる力として活用しなさい。」というのが、般若心経が説いていることだとおっしゃっていました。
    A氏は、この世に生まれる前は7次元の菩薩界(マザーテレサと同じ)におられ、6次元の諸天善神(いわゆる八百万神のこと)を数名引き連れ、地獄界に堕ち、反省に目覚めた霊を引き上げる仕事をなさっていたようです。
    地獄界も上層、中層、下層に分かれており、中層には、殺人を犯した人等が、下層には、宗教に盲信した人等が堕ちているとおっしゃっていました。
    またB氏(背後霊団が5000人ついており、8次元の如来界からこの世に来た人と言われていた)は、ローマ帝国がキリスト教を国教と定めた時のニケーア会議(西暦325年)において、自分たちに都合のいいようにイエスの教えとは正反対の教義に書き換え、これまで全部で12回聖書は改ざんされているとおっしゃっていました。

    真偽は、私にはわかりません。
    ただ、このような見方もあるということを知っていただきたくて長長と失礼しました。

    No title

    2013.8.10.12:05
     のコメントは、私です。そそっかしくて申し訳ありません。

    No title

    天使リダさん

    その両氏が主張するところは結局、神の摂理についての一つの表現方法ではないかと思います。一つの真理をそれぞれが違う角度から見ているわけで、昔から各宗派の主張するものが違っているように見えてきたと思いますが核心は同じものです。

    人は自分の真理というものを持っています。各自がたどり着いたものがその人にとって真理ということになるでしょう。利他の心に基づいた日頃の思いや行動が自身の向上につながるということにおいて異論を述べているような思想や宗教はないでしょう。

    その人が何を言っているかではなく何をしているかということがその人の霊性を表すものです。これだけはごまかしようがありません。簡単なことのようですが単純に言い表せる言葉の中に真実があると思います。

    今年の日本の暑さは異常のようですね。くれぐれもご自愛ください。

    大空

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