10 | 2017/11 | 12
    - - - 1 2 3 4
    5 6 7 8 9 10 11
    12 13 14 15 16 17 18
    19 20 21 22 23 24 25
    26 27 28 29 30 - -
    最新記事

    カテゴリ

    プロフィール

    大空澄人

    Author:大空澄人
    これまで自分の探求してきたものを 「いのちの波動」 というページ上で表現してきましたがPCのトラブルによりこのページに引き継がれました。一時的にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

    リンク

    最新コメント

    メール宛先

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    検索フォーム

    カウンター

    神の摂理と信心 3

    2013.08.16 02:58|真理を求めて


    前にも述べたように人が信心の対象を持ち、そこに全幅の信頼を預けられるようになると奇跡とか日常の常識を超えたようなことが起きるようになる。自分はやるだけのことをやりました、後はお任せしますという心境になると自分へのこだわりが減ってくる。 自分に対するこだわり(我といってもいい)が強すぎると1人よがりになりがちである。そこで誰か自分の親のような存在がいて何かと面倒を見てくれるなら何と心強いことだろうか?

    しかしあまりにそういうものに依存してしまうと自分の努力を放棄してしまうことになりかねない。やはり人間は自分の力で人生のあらゆる問題を解決しなければならず、それなしには進歩、向上は望めない。自分の守護霊や指導霊は決して問題解決の方法を直接教えたりはしない。信仰心は尊重しなければならないが、やはり根本の原理原則(神の摂理)を正しく理解した上でなければならないと私は思う。

    人間には思念の力によって自分の心の中にあるものを実際に創りだす能力があるようである。懸命に一つの対象物に向かって意識を投影していくとそういうものが実在するように見えるのだろうと思う。 自分には実際に見えているが他に人には見えない。観音様、不動明王、その他の仏教の諸天、あるいは天狗や蛇などが見えるというわけである。私の場合、観音様や不動明王、弘法大師の姿が見えていた時期があった。それは今でも意念を集中すれば見えるだろう。

    旧ページのお釈迦様のメッセージというテーマのコラムで釈迦からのメッセージというものを載せている。勿論お釈迦様からメッセージを受けたなどと公言するつもりはなく、唯、実際にあったことをそのまま載せただけなのだが、その頃家にある釈迦如来の仏像に向かって意識を集中すると若々しく溌剌とした人物像が常に見えていた。この場合は観音様や不動明王の場合と少し違いがある。観音様や不動明王が殆ど仏画に表されているイメージ通りであるのに対してお釈迦様として抱いてきたイメージとは全く違いそれまでに見たことのない顔と雰囲気を持っていた。その違いの原因はわからないがお釈迦様と言えば仏画に描かれている姿をお釈迦様と思っている人が多いと思う。

    感性(霊的感性)豊かな人の場合、他の誰かが思念を集中して生み出したものが見える事があるようだ。そういう現象が起きる原因として次のようなものが考えられるだろう。熱心な行者が心に不動明王を念じて行を続けるとこれまでに説明したような現象が生まれやすいだろう。意識を照射する対象が別の仏でも同様であろう。行を積んだ場所にそれが発生してエネルギーとして残っていると後でそこを訪れた霊感のある人の目に触れることになる。そうするとあそこには本当に仏様がいるとか天狗がいる、あるいは蛇、狐がいるということになりはしないだろうか。

    そこであそこの寺社や聖地に行けばご利益がある、本当に神仏がいるという評判が出来る。さらにそれを聞いた人たちが来て拝むことによって一層そのイメージがその場に焼き付けられる。そしてその後も現世ご利益を期待して大勢の人が参拝に来るようになるかもしれない。しかしそこにはここで述べたような現象が起きている可能性があることを理解していたほうがいいと思うのである。

    コメント

    大空さん、おはようございます。


    浄土真宗の宗祖親鸞上人は、9歳で仏門に入られ、比叡山に行かれましたが、厳しい修行ののち、29歳の時、天台宗に疑問を持たれ、比叡山を下りられて、六角堂に籠もられたと、きいていました。
    籠もられて95日めに、聖徳太子が上人の前に現れたと。

    そのお話しを思い出しました。

    架空の伝説なのかと思っていましたが、実際に有り得ることなのですね。


    座禅で、仏様や、光などが見えたりする、魔境という状態があると聞いたことがありますが、それも同じようなことから、起きてくることなのでしょうか。


    思念の力って、それだけ大きいということなのでしょうか?

    No title

    はじめてコメントさせていただきます。
    大空さまのことは、ブログより先に旧HPで知りましたが、ブログの存在は最近知りました。
    大空さまの文章をまた読めることができて嬉しいです。
    この、記事のシリーズはとても示唆に富んでおり、思わず引き込まれて拝見しております。
    今までの、大空さまの真摯な探求とツールに徹された謙虚な思いと行動に裏打ちされたリアリティのある記事で、霊感のないわたしにも、理解しやすく伝わってきます。
    このような記事を読むことができて、大空さまに感謝しております。
    これからも楽しみにしております。
    残暑厳しきおり、ご無理なさらず、お体おいといくださいませ。

    No title

    ゆきこさん

    私は昔から人々が見てきたとされる神仏は多くが自分の思念によって作られたものではないかと思っています。こういうと不遜と思われるかもしれませんが昔は心霊現象に対する知識はなかったでしょう。今は心霊科学というものが形作られつつあり昔は理解不能であったこともわかるようになっています。やはり時代とともに人の理解力も進歩しているということではないでしょうか。

    親鸞上人の話は伝説かどうかはわかりませんが、もし実際に聖徳太子を見たのでしたらこの記事で取り上げている現象の可能性も考えられるでしょう。

    神聖視されている伝説の宗教人の偉業に対してとやかく言うつもりはありません。唯、霊界の親鸞上人も今では昔の自分のなした為した事を称えるよりも、人々が真実を深く理解してくれることを望んでいると思います。真理は限りなく深いものですから。

    実際にそういう体験をしている人は少なからずいるはずです。実際には人間が考えるような神や仏はいないでしょう。実在するものは霊ですから神仏と表現されるものは高級霊を指すものと考えればいいのではないでしょうか。

    大空

    No title

    sara さん

    コメントありがとうございます。旧ページの時から見てくださっているとのことで嬉しく思います。見えない世界を表現するのは簡単なことではありません。自分はわかっているつもりでも他の人にそれを伝える難しさを常に感じています。

    信仰の世界はともすれば頑なになりがちで、強い信仰心が逆に妨げとなって新しいものを取り入れる事を拒んでしまう傾向が見られます。これからの信仰というものは自らに備わっている理性や向上心を満たすものでなければならないと思います。

    盲目的信仰ではなく根拠のある信仰でありたいものです。そういう意味合いもあってこのシリーズを書いていますが、なかなか満足できるものにはなりません。
    何なりとコメントをください。楽しみにしています。

    大空
    非公開コメント