fc2ブログ
    02 | 2024/03 | 04
    - - - - - 1 2
    3 4 5 6 7 8 9
    10 11 12 13 14 15 16
    17 18 19 20 21 22 23
    24 25 26 27 28 29 30
    31 - - - - - -
    最新記事

    カテゴリ

    リンク

    最新コメント

    メール宛先

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    プロフィール

    大空澄人

    Author:大空澄人
    これまで自分の探求してきたものを 「いのちの波動」 というページ上で表現してきましたがPCのトラブルによりこのページに引き継がれました。一時的にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

    検索フォーム

    カウンター

    二つの声

    2014.07.20 09:24|インスピレーション
    ここと言う時に自然に自分の言葉や行動として現れてくるものがその時点での自分の神性の表現です。それは良心の声でもあり、どれだけ霊的に磨かれているかを表すものです。

    一方心の中に取りとめもなく湧いてくるようなものは自分の雑念ですからそれに従うと迷いの道に入ってしまいます。人の心の中には常に相対する思考が存在します。一つは霊的意識が生むもの(良心の声)、もう一つが主に肉体を起源とするもので煩悩の元になるものです。そのどちらの声に従うかによって将来の結果が変わってきます。

    コメント

    結果にとらわれすぎない

    大空さん いつもありがとうございます。

    この地上界 特に経済の世界やビジネスの世界では結果だけを求められます。

    「結果が全てだ」「結果を出せ」などと言われてしまいます。

    その結果はすべて 物質的で肉体的な結果です。

    物質的な結果にとらわれすぎた時、迷いの道に入ってしまうようです。

    結果ばかり考えるとあれこれいろいろ考えてしまいますよね。

    結果のことは忘れていて、こうしようとふと考えついていることがあります。

    なんの脈絡もなく そう思っていて、気がつくと行動すら起こしています。

    私も今までに何回もありませんが、そのような行動が出来た時は、結果がどうであれ後悔はしていない自分を発見できます。



    No title

    コバチャン本舗さん

    遅くなってしまいました。自分を例にとってみると本能的に、直感的にこうだと思えて確信が持てるような事が時々ありますがそれが霊的な自分の声なのだろうと思っています。

    人間は霊的な自分と物質的な自分が常にせめぎ合いをしているようですね。死後はそういう葛藤から解放されることでしょう。この世の我々はかなり窮屈な状況に置かれていると言えるのかもしれません。でも物的身体に宿っている状態は永遠の人生という視点で見れば一時的なものに違いありません。

    No title

    大空さん、おはようございます。


    私事で恐縮ですが、息子の事故の2番めの加害者の公判を傍聴するため、遠路はるばる高等裁判所まで行ってきました。

    判決はまだ先になりそうですが、思いがけず、高等裁での裁判まで経験して感じたことは、これまで裁判というと公平で公正なものだと思っていましたが、そうではないのだということでした。
    いい加減とまではいいませんが、不完全な人間が不完全な人間を裁くのですから、そういう程度なのかもしれません。

    私などでは、理解の範疇を超えているのですが、肉体に閉じ込められている人間の作った法律などは、神の摂理には遠くおよばないものなのでしょう。

    でもなんとなく思うのは、原因があって結果があるのだろうな、ということです。

    わからないことだらけですが・・・


    No title

    ゆきこさん

    私は裁判は経験がありませんが完全公正と言えるものではないと思います。
    人間が人間を裁くわけですから神の摂理とは次元が違うものでしょう。

    裁判には時間と労力がかかりますが神の摂理は自動的に且つ完璧に作動すると理解しています。人間一人一人が神の摂理によって常に裁定を受けているということを一人でも多くの人に知ってもらいたいと私は思います。
    非公開コメント