あなたが今見ているものは真実から遠い仮の世界です。そこで見るものは成長途上にある不完全なものばかりです。
それらを見て腹を立てたり不満を感じるのは無理もないと思いますがそれらは全て教材であり、あくまでも洞察力を磨くための比較対象の材料なのです。
あくまでもそこは真実を見る目を養う場所なのです。あなたがそこに住んでいるのはわずかの間です。
『真実から遠い不完全なもの』言われる通りだと思います。
私は、半世紀生きてきて、日本は法治国家だと思っていました。
でも、司法の世界でみたものは、ここもまた経済至上主義でした。
お金のある人は、有能な弁護士を雇い、黒いものを白にもできる。
お金持ち同士だと、地位など、損得勘定が加味される。
私の見たものは、ほんの一例かも過ぎませんが、国を治める法律なんて一体どこにあるのだろうと、法治国家だということが、首を傾げたくなりました。
息子の事故の加害者が雇った弁護士は、どうみても70すぎていました。
弁護士という社会的地位を得て欲に目がくらんで、自分の本当の心を殺して生きてきた人のようにみえました。
人生残り少なくなってきても、生き方を変えることは難しいのかもしれません。
それと、自分のことは、案外見えているようで全く見えていないのかもしれません。自分も含めて。
ゆきこさん
司法でも政治でも、また経済界や宗教においても、人間がバイアスのかかった目で見るのでそれなりに歪曲されて表現されることになるのでしょう。真理が曲げて表現されるのがこの世の特徴だと思います。なので理不尽がまかり通るわけですね。
でもその事を見通すことが出来ていればいいのだと思っています。嫌世的になり逃避的な姿勢をとるということではなく達観できるようになればいいですね。
実はこれは自分に言い聞かせています。
大空さん いつもありがとうございます。
今回は記事とあまり関係のないコメントになってしまいます。
お許し下さい。
妻が亡くなって部屋が空いたのでそこを「コバチャン本舗のシルバーバーチサロン」にすることにしました。
3~4名で読書会をしたり、お祈りしたり、動画を見たりする霊的な部屋にしていきます。
私のプライベートな空間と別々にできる間取りなのでそのように決めました。
この21日 22日に部屋の片付けを始めることにしました。
私は今までに2回 片付けをやり始めたことがありました。
1回目は妻がなくなって3ヶ月後ぐらいに片付けを始めました。
妻の洋服を処分していたら、辛くなって途中でやめてしまいました。
2回目は妻がなくなって1年後に片付けを始めました。
ところが妻が入院中にこっそり書いていた絵日記を見つけてしまい、号泣してその時もやめてしまいました。
そこで私はシルバーバーチの霊訓を何回も読んで霊的真理を心に染み込ませることにしました。
そして、今度は大丈夫だと思って 3回目の片付けを始めたのですが、手紙などいろいろなものを見つけてしまい、また号泣してしまいました。
もう 大丈夫だと思っていたのに。。。
妻が霊界で幸せなのはわかっています。
この悲しみは私の利己的な感情であることもわかっています。
しかし、あの時の悲しみが蘇ってしまうのです。
まだまだ 私はスピリチュアリストではありません。
こんな弱い私では人を救うなんて出来る訳ありません。
一から学び直しです。
妻を悲しませてはいけないですね。
ありがとうございます。この世が「仮の世界」とは言え、なぜ愛する子どもを引き離して早逝させたり、愛する者同志を引き離してあちらに旅出させ、のこされたこちらの遺族を悲しませるのでしょう。
私の住む地域の氏神様は「日本書紀」にしるされた神功皇后伝承の地で皇后征韓の際、同道した重臣の武内宿祢が謀反の濡れ衣を着せられ、討伐されようとしたとき、宿祢にそっくりだった壹岐値真根子尊が宿祢の身代わりになって討たれ、政権の危機を救ったとして福岡。黒田藩から「神」として祭られているという由来があります。
「人の身代わりになって、人を救う」――この「愛」はローマ字で書く大文字の「LOVE」、家族への愛、身内への愛は小文字の「love」ではないかと思います。
言葉を替えれば小文字のloveは執着の愛です。
「執着の愛」について他のブログには神示として
あの世の修行もこの夜の修行も全ては同じ。
執着を取ること、ただそれのににて一途に行い
後は天命、神の御心、神に預けて悩まぬように
とありました。おおそれたことを書き、恐縮ですけど、私はコレだ、と得心いたしました。
コバチャン本舗さん
それが自然な姿ではないでしょうか。少しも無理をする必要はないと思います。
伴侶との離別を僅かの時間で気持ちの整理をつけるのはたやすいことではないでしょう。10年、20年と経っても尚悲しみから抜けられない人もいるようですから。
霊的真理に出会った人は幸いです。これまでの人たちが知らなかった知識を手にしているのですから。人の心も世の中のことも思い通りにはなりませんね。つくづくそう思います。
自然体で摂理に身を任せるほかはありません。摂理がどのように働いたのか、それを知るのは恐らくあちらに移ってからでしょう。
kunyさん
離別の体験などにおいても神の摂理が働いているはずです。
人には神の大愛は到底理解できないでしょう。
長い目で、霊の目で見れば人のあらゆる体験の底流には人智の及ばない力が働いていると思います。永遠の人生という目で見てはじめて神の働きというものが理解できるのでしょう。
それは今生の人生だけでは到底知り得ないことだと思います。真理の探究も言い換えれば神とは何かを知ることであると私は思っています。
こんばんは。今日主人の四十九の法要終えました。
先日コメントを頂いてから亡くなっても近くに居てくれる気がとてもしていましたが、今日の日を迎えたらまた空虚感が襲ってきてしまいました。まだまだだめですね。一歳になった息子から元気をもらってます。
わたなべさん
人の心は絶えず変動してなかなか定まることがありません。私も同様です。
光明を見たと思っていたらまた闇の中に入る。するとあの時の高揚感は一体何だったのかと思えるものです。人生はこういうことの繰り返しですね。
49日が終わったのですか。一区切りですね。
この間、故人そのものを悲しんでいるのではなくその人に会えなくなった自分自身の身の上を嘆いているということをある人たちにお話しました。その本当の意味を理解出来るようになる頃には今の悲しみも薄れていることでしょう。
大空さん、ご無沙汰してしまいました。
先日、久しぶりに武本先生のともしびで、
短命と長寿のことについての随想を拝読しました。
(3月1日)
大空さんの記事が転載されていました。
多くの方が、大空さんの霊界通信に、
助けていだだいているんだなあと、
改めて思いました。
私も、昨日の日記に大空さんのコメントを
転載させていただきました。
事後報告で申し訳ありません。
いつもありがとうございます(^-^)
ねこうさぎさん
お元気でしたか?
何か私の書いたものがお役に立てるなら嬉しいことです。
どうぞお使いください。
今年もすでに3ヶ月が過ぎました。
時間の流れが年々早くなっているように感じます。世の中は目まぐるしくていちいち気にしていたらきりがありません。仕事をリタイアしてゆったりした気分で毎日を過ごしたいと思っていても色々と気にかけることが出来てきます。きっとどこまで行ってもそうなんでしょう。