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    分かるということ

    2012.07.25 14:04|真理を求めて
    人々の理解能力は皆違い受け止め方も違う。ある出来事がある人には容易に理解できてもある人には理解できない。それがこの世の厄介なところであり、また様々な軋轢やこじれた問題を生む原因になっているのだろう。皆が同じレベルなら何も苦労することはなく、すぐに分かり合えるということになるのだろう。同じ地球上に住んでいても一人ひとりが違う精神世界に住んでいるのである。

    分かるという事は言葉で言えば簡単だがそう簡単ではない。本を読んでわかったと思っていてもそれは本当に分かっているという事にはならないのである。それが本当に理解できているかどうか試しの場面が人生のうちには何度も来る。その時本当に分かっていないものは脆くも崩れ去ってしまう。メッキは簡単に剥がれてしまうのである。

    本当に分かったら試しの場面は来ないだろう。試しの場面は本当に分かるまで何度も来るのだろうと思う。私が子供のころから両親や祖父母からよく聞かされた言葉がある。「これで少しは性根に入ったか」。痛い思いや苦い経験をして初めてわかるということである。思い知る、性懲りもなく、懲りない面々、等々と言う言葉が使われるがそれは物事を本当に理解するのは容易ではないことを表したものであろう。人間がこの世に生まれてくる大きな目的の一つは“迷いの坩堝”のような人間社会のなかで真理を見る目を養うためなのだろう。分かるまでは目が塞がれているということなのかもしれない。

    父から貰ったメッセージに「目を開くこと」というものがあったが正にその通りだろう。
    父からは“性根に入ったか”という言葉をよく聞かされたものだ。

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