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    盆、先祖、風習

    2012.08.14 15:01|随筆集
    P1020695.jpg 


    今年も盆が来た。昨晩は夜中過ぎから雷雨となり久しぶりの潤いになった。ひと月近くもかんかん照りが続き畑も地面も干上がっていたので恵みの雨ということで自然界のものもほっと一息ついているように見える。昼間はまさに灼熱地獄で連日35度くらいの日が続き外に出るとクラクラ、一層目眩がして外出するのをためらうような状態が続いてきた。若い時は真夏の海で一日中過ごすようなことをしてきたが当時はこれ程暑くはなかった。せいぜい最高で32. 3度くらいではなかっただろうか。近頃は軽く35度を超えているので2.3度くらい温度が上がっているように思う。

     

    盆といえば子供のころに母から聞かされた話がある。母が子供のころに母の祖母に聞かされたという話である。盆の時にある人が家の外でひそひそと人の話し声がするので耳をそば立てたところ次のような会話が聞こえたという。

     

    「さっき自分の昔住んでいた家に行ってみたらワシら先祖をきちんと祀っていないから腹が立ってそこに寝ている赤ん坊の首を絞めて殺してやった」。

     

    それは先祖同士の会話であったそうで先祖をきちんと供養しないと先祖が祟るという話である。私はそれを聞いて先祖と言うものは何と恐ろしいものなのかと思い、その思いはずっと抜けなかった。先祖とは恐ろしいものなのだ。日本(日本だけではないだろうが)の土着信仰では祟り神、祟る先祖などという発想があり未だに人の心のどこかにそういうものが残っているような気がする。また次の話も子供の頃よく聞かされたものだ。

     

    「盆を過ぎたら海で泳ぐものではない。“しょうろさん”(精霊のこと)が足を引っ張りに来る。溺れて死んでしまうぞ」。

     

    それは子供にとっては恐ろしい話であり、事実盆を過ぎると海で泳ぐものは殆ど誰もいなかった。盆を過ぎると確かにクラゲは増えてくるがまだまだ盛夏、盆を過ぎたというだけで海に行けないというのは納得できないなと私は子供心に思っていた。今の子供は殆どプールに行くので海で泳ぐ子供は非常に少ないが私の子供時代にはプールはなく海しかなかった。でもその海は今とは比較にならないくらいきれいだったのである。盆を過ぎると海には入れないし、学校の宿題のことが気になり始めて夏休みも次第に楽しくなくなってきたものである。

     

    高校生、大学生くらいになっても盆過ぎに海で泳いで背の立たないところに行くとこの“しょうろさん”の話が頭の片隅に残っていて少しばかり気味が悪かったものである。

     

    子供の頃に聞かされた話は年をとっても頭のどこかに残っているものである。しかし先祖の機嫌を損ねたら子供が絞め殺されるなどという話を現代に生きる人が受け入れたりすることはあり得ないし、盆過ぎに海で泳いでいるとあの世の者が足を引っ張りに来るなどと言う話も同様であろう。それを見れば当時の人々の理解度が推察されるし、まだまだ迷信が残っているとは言え、今の時代は当時に比べて進歩していると言えるだろう。


    迷信というより風習に近いものかもしれないが4年位前に私が地区の役員をしていた頃のことである。墓地管理委員会というものがありその席で私は今まで続いてきた無縁仏の墓石に赤いよだれ掛けを毎年新調して付け替えるのを止めるよう提案した。“無縁さん”と呼ばれて要らなくなった墓石を集めてピラミッドのように積み重ねたものがどこの墓地に行ってもあるものである。墓地整理などで要らなくなった墓石は増えこそすれ減ることがないので相当な量に達していてまさにピラミッドのようになっている。しかし捨てたりすると祟りが恐ろしいということか?

    その下から何列かの墓石全部に赤い布で涎掛けを付けそれを毎年盆が来たら取り換えるという作業を地区で続けてきた。紫外線ですぐに色あせるし赤い布を買ってきて縫ってよだれ掛けを作るというのは大変な事なのだがそれを各地区持ち回り(老女の仕事で高齢化してきてもうこれ以上続けるのは無理)で続けてきたのである。昔はそういうことはしていなかったのに一旦習慣づけられるとそれが止められない。誰かが止めようと言ってくれないと自分から止めようというのは勇気がいる。それがこの地区の特徴である。

    会議の場では「止めたらいいと思うけど後で何を言われるかわからんからな」と言う者がいたので私は「そういうことを言いたい者には言わせといたらいいんじゃないか。後であの時止めておいてよかったということになるよ。根拠のない事だから」と言い、結局私の意見が通ることになった。

    そして無縁仏によだれ掛けを付けない状態は今年で4年目になった。その無縁仏(無縁仏といってもどこの誰だかわからないのではなく各家庭の墓地が手狭になったのでそこに移動させたものが殆ど)を自分の家の墓地のスペースから外す時に「お性根抜き」といって寺が来て拝む。墓石に宿っている先祖の魂を抜くということらしいがそれを寺に頼むと2万円取られる。理趣経の短縮型をちょっと唱えて行事作法をして、はい2万円ということになるのである。

    これなども先祖が祟るという発想が根底にあるような気がする。当時私は丁度寺の改革問題で色々とあった頃である。ある朝歯科医院に仕事に行くと駐車場に赤いものが投げ込まれている。よく見るとそれは無縁仏のピラミッドの前に並ぶ六地蔵さんの帽子であった。六地蔵さんの帽子とよだれ掛けだけは中止することなく今も続いている。墓地に行ってみると一つだけ帽子のないお地蔵さんがいたので私は駐車場に投げ込まれていた帽子をお地蔵さんに被せ直した。また我が家の墓の水入れや線香立てに砂を入れたり明らかに誰かの悪戯とわかるようなことが時々起きていた。

    何時の時代も今までに続いてきたことを変えるのはエネルギーが必要だし抵抗があるが一旦変えればその後は意外とスムースに行く。迷信や風習というのはそういうレベルのものであり、もし人々がその意義を感じて理性的に納得しているものならば簡単には変えられないだろう。根拠のないものは年月を経て消えていく運命にあるのではないだろうか。

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