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    死は肉体からの解放

    2016.10.23 15:38|インスピレーション
    洞門

    肉体が無くなれば殆どのこの世の苦しみから解放されます。時間に追われることはありません。人は肉体を介して地球に引き付けられているので否応なしに地球の時間に付き合わされます。肉体が無くなれば時間の束縛から解放されます。また肉体の要求からも解放されます。食欲や性欲、老い、病気や怪我などの心配や悩みとは縁が切れます。

     

    そうなった人を嘆き悲しむのは間違っています。霊的に無知であることを証明しています。それはその人に会えなくなった自分の身の上を嘆き悲しんでいるのです。



    追記
    今年も秋になると次々に有名人の死去のニュースが流れるようになってきました。相変わらず「惜しい人を亡くしてしまった。あまりに悲しい事で残された我々にとっては取り返しのつかない損失だ。もう二度とあのような人は現れないだろう。ご冥福を祈ります.......」。というようなコメントが新聞の紙面を飾っています。今更それについて言及する気も起きませんがそこで誰かが「何々さんこの世の人生を全うすることが出来て良かったですね。おめでとうございます。もうこれでこの世の苦しみから解放されましたね。これからは霊界で幸せに暮らしてください」。というコメントを出したらどうなるでしょう。恐らくカットされるに違いありません。まだまだ世間は霊的無知の支配する世界ですが、それでも少しずつ霊的真理が浸透してきているように感じます。

    コメント

    No title

    大空さま
    いつもありがとうございます。

    スピリチュアリズムを学び、少しずつ理解が深まるにつれて
    「死」に対する認識が大きく変わりました。
    死は怖いものでも逃げでも敗北でもなく、今世でのお役目を全うした証として
    苦悩から解放される日であると受け止めることができたからです。
    それは、私にある種の安心感をもたらしています。
    もちろん厭世観とは全く違う感情です。

    ゴールでありスタートである「死」があるからこそ
    限られた今この時を、神や大自然そして人々に感謝しながら
    精一杯生きていこうという思いが一層強くなりました。

    それと同時に、以前にも増して人が喜ぶ姿を見るのが嬉しくなりました。
    とりわけ自分が発する言葉や行動が誰かの役に立っている、
    誰かのためになっていると実感できた時には、心底からの喜びが
    湧き上がってくるのです。
    そして、自分もまた人から支えられ真心に包まれていることを実感しています。
    人と人との繋がりは、決して一方通行ではないのですね。

    No title

    大空さま

    肉体から解放されるってどのような感じなのでしょうね。
    誰にでも訪れることだと思うと当たり前なのに何だか不思議な感じがいたします。

    甥が若くして亡くなりましたが、その葬儀でのことです。

    ハワイアンっぽいシャツを着た男性が私と姉の側に来て、ビックリしたように
    「いやあ、葬儀のときの魂は自分の遺体と一緒に横たわっているのが普通なんだけれど、この若者は自分の棺の上に立って周りを眺めているよ~、ほら、今はあの女性の側に行って肩を抱いて何か話しかけているよ」
    と、指差した先には甥が一番慕っていた甥の長姉が悲しそうに座っていました。

    視える人だったんですね。
    後で聞いたら、姉の夫が時たま行っていた教会に来ていた人だったそうでした。
    この方のおかげで、悲しかった甥の葬儀が今は何となく明るい記憶になっています。

    No title

    ルナさん

    コメントありがとうございます。
    スピリチュアリズムは霊的事実を知ることなのですが、多くの人たちはこの単純な事実を何故か知ろうとしないのですね。知れば心安らいで生きられるのに。

    それを知った後は利他愛の実践ですね。これがなかなか難しい事で私も思い知らされています。目には見えず、耳にも聞こえないけど自分の周囲には神の摂理の糸が張り巡らされています(適当な表現かどうかわかりませんが)。そこに調和していくことが永遠の人生における課題なのでしょう。これは今朝の瞑想の時に閃いた事です。

    ようやく秋が深まってきましたね。早朝の犬の散歩の時には手が冷えました。これからは手袋が必要ですね。山も色づいてくるでしょう。


    No title

    ラピス さん

    死後にもその人は波長の違う世界で生きているということを一人でも多くの人が知ってくれたらいいですね。そうすれば悲しみ一色(義理で出席していて他ごとを考えている人も多いですが)の葬儀の席も様変わりすることでしょう。

    自分がそれを実感出来れば何がそんなに悲しいのだろうと思うでしょう。
    私は葬儀の時につい本心を言いそうになることがあるので注意が必要なのです。
    ハワイアンっぽい服を着た人ほどではありませんが「彼は、彼女はそこに立っていて皆に挨拶しているよ。これまでありがとうと感謝しているんだよ」。

    それを聞いた人のその後の私を見る目がどう変わっていくのか大体想像できるからです。「あの人は最近頭がおかしくなったんじゃないの?ヒソヒソ.....」。
    特に田舎では世間が狭いので少しばかり注意が必要です。

    他界した人が死後に棺桶の中で遺体と一緒に横たわっているという話は初めて聞きました。シルバーコードが切れて遺体からは離れて葬儀の様子を見ているというケースが多いと思います。もしくは葬儀の時は意識が朦朧としているので何をやっているのかよくわからないと言うケースも多いと思います。通常は用のなくなった自分の肉体を見て清々した気持ちになるようです。自分の体(霊体)を実感できるわけですからすでに抜け殻になった遺体に未練はないというわけです。



    感謝のみの参拝にしたら…

     大空様 いつもありがとうございます
     
     私の住む地域の氏神様は、日本書紀によりますと応神天皇の時代、筑紫に派遣された大臣クラスの武内宿祢が派遣先で謀反を企てている、とのニセの情報を朝廷に告げたため、宿祢討伐の兵が筑紫に派遣されました。それを知ったのが宿祢のそっくりさんで、彼は宿祢の身代わりとなって自刃し、危急を救いました。身を捨ててまで国や人を思う慈愛に福岡・黒田藩第三代藩主が尊い霊に報いるため、氏神として祭り、神社を創建しました。約300年前の事です。
     衛星都市を含めて250万人の中の神社ですので、今は開運の神様として参拝が絶えません。
    私も以前から散歩のついでにお参りしていましたが、スピリチュアリズムに触れるようになった最近はすっかり祈りの内容が変わってしまいました。
     「大霊と心を合わせての地域のお導き、ご加護ありがとうございます。神様の世界がますます繁盛いちしますように。それからこの社を創建なさいました黒田光之さま始め黒田・福岡藩の方々、そして地域の方々ありがとうございます」と言って帰ります。

     不思議な現象が現れました。私は霊の世界もインスピレーションも感知できない地上オンルイの愚人ですが、ふとしたことから神社や神域にカメラを向けたら紫色の雲がかかったように写し込めていますし、先日は六芒星までハッキリと撮れたので感極まってしまいました。
     オーラとしての紫色は「霊性」を表すとか?
     祭られた人も、祭った人たちも霊界で生きておられる――。「死は肉体からの開放」の証明だと私は感得しているのですが……。

    No title

    kuny さん

    私も以前はよく神社に行ったものです。
    今ではどこで祈ろうと瞑想しようと届くところは同じであると認識しているのであえて行く必要は感じなくなりました。でも確かに清浄な気のあふれた神社があります。

    自然のエネルギーと建物がうまく調和していてそこにいるだけで清々しい気持ちになれるところがあります。伊勢神宮がその代表でしょうか?但し早朝など参拝者が少ない時に限ります。大体どこの神社も大きな木がありその木に向けて掌を向けるとピリピリしたものを感じます。木の出すエネルギーと共に自然霊(妖精)がいることもあり敏感な人ならそれを感じると思います。

    それからそこに参拝する人の質や宮司の心がけもその神社の雰囲気を作っていると思います。参拝者が現世御利益ばかり求めたり宮司の心がけが良くなかったら汚れた雰囲気になってしまいます。寺も同じことが言えます。

    それらを複合したものがその神社の雰囲気を作っていると言えるでしょう。
    しかしそれらの要素はあくまでも二次的なものであり、最終的にはその人本人の生き方や普段の心がけ、それがすべてではないかと思います。


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