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    百ヶ日

    2013.04.08 10:24|真理を求めて
     

    低気圧が通過後も強風が吹き荒れた日曜日、この間他界したおじさんの百か日の供養を頼まれ、妻と二人で近くの親戚に出かけた。それはおじさんの長年連れ添った妻とその子供たちが集まった和気あいあいとした雰囲気のなかで行われた。読経や妻のご詠歌の始まる前からおじさんが現われた。
    仏壇の隣が床の間になっていてその前でおじさんがにこやかな表情で立っている。立っているというより上半身の姿が見えてその姿は若々しく、晩年の病気がちの姿とは別人のようになっている。

    参加者は気のおけない人たちなので私は、今おじさんがここに現われているよ。見える?と話しかけてその状況を彼らに説明した。

    おじさんの子どもが「へー?私には見えないよ」。 
    「見えないか?」と私。

    今回はおじさんは儀式が終わるまでその場を去ることがなかった。我々と共に愛に満たされた一時を過ごせたことだろう。こういうと失礼かもしれないがこういう場にはあまり他人がいないほうがいいようである。そういう意味からも義理で葬儀や通夜に出るというのは本当は空しい事である。


    そういう極めてなごやかな雰囲気のなかで私たちは久しぶりに観音経を唱えた。この経は西国巡礼のときにずっと唱えてきたし家でも毎日のようにやっていた。西国巡礼の時の思い出が蘇り思わず目頭が熱くなるのを覚えずにはいられなかった。もし我が家で葬儀をすることになったとしても我々だけで出来るし自由に葬儀というセレモニーをアレンジすることが出来る。家族が一人ひとりメッセージを伝えればいいし、もしあちらの世界に旅立とうとする人がメッセージを伝えてきたら私はそれを皆に伝えることも出来るだろう。参列者は家族を中心として縁の濃い人のみで充分だ。素敵な葬儀が出来るだろう。

    一連の読経や詠歌の奉納が終わり私はおじさんの子供たち(といっても50代から60代)一人一人におじさんからのメッセージを伝えた。とても感動的で笑顔の絶えない百か日の供養であった。



    追伸
    あちらの世界の人がどういう風に見えるかということを言葉で表現するのは非常に難しい。私の場合は視野の全面にわたってその人の目を中心とした顔と上半身が見える。と言っても普通に肉眼で見るものとは違う。目をつぶっていても開けていても同じであり、目という器官を通さずに直接脳で見ると言えばいいかもしれない。娘もたまに父の姿を見るという。聞いてみるとその見え方は私の場合とまったく同じらしい。

    メッセージがどういうように入ってくるかということだがそれはテレパシーと表現したらいいかもしれない。相手からエネルギーを受信してそれが自動的に翻訳されて言葉になる。あえて言葉で表現しなくてもその内容は自分では理解できているが、言葉で表現しないと他の人には分かってもらえないからこのように言葉で表しているということである。

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