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    大空澄人

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    神の摂理と信心 4

    2013.08.21 08:27|真理を求めて


    自分が強く心に念じることは時として一つのイメージを作り出し、そこから一つのエネルギー体が出来るのではないだろうか。人間の思念の力は侮れない力を持っているようだ。見えない世界では思念の力によって常に何かが起きていることになるので自分の心に思うことは十分に注意を払う必要がある。

    時々写仏をしている人を見ることがある。写仏は仏の姿を複写していくものだがイメージを焼き付ける一つの方法かもしれない。しかし実際にはその基になっている仏の絵を描いた作者からのエネルギーを吸収することになっていると思う。絵画等はその前に行くとその作者のエネルギーが放出されているのを感じるものである。美術館は霊的エネルギーに敏感な人が行くとそのエネルギーを受けて疲れるものである。

    写経も内容はよくわからなくても、ありがたいとされる経文を写してそのエネルギーと波長を合わせようということかもしれない。写経や写仏は自分の心を鎮めてニュートラルな状態にするにはいいかもしれないが、これは本当に釈迦の語った言葉なのか等と、内容に疑問を感じながらやっても意味はないだろう。経文自体を崇拝し本当に仏の言葉であると思い込めばそれなりの信仰による力が現れてくるかもしれない。

    次に述べることは日常の私たちの生活の場にはあまりに縁遠い話であるが、地上の生命体は高級霊の思念によって創造されたという。進化したスピリットによる強力な思念の力は新たな生命の形態を創造するという。この地上世界の植物や動物は高級霊によって創りだされたという。神の創作といってもいいかもしれない。その中には害虫など我々にとって好ましくないものもいるが、それさえも偶然に発生したものではなくそれなりに存在意義を持っているのだろう。

    日本神話に登場する素盞鳴尊は地球神の一柱であり造化の神とも呼ばれている。その見方が正しいのかどうかわからないが我々の想像を絶する叡智と力がこの地球環境を創り、制御しているのだろうと思う。あまりにスケールが違うが我々一人ひとりにも思念のパワーが潜在しているようだ。

    私たちの願望が実現するにはとても大きな労力を要する。思念のパワーが最後に物質世界において具現化するには時間がかかる。抵抗勢力と戦わなければならないこともある。それが物質の世界の特徴であろう。

    神の摂理と信心 3

    2013.08.16 02:58|真理を求めて


    前にも述べたように人が信心の対象を持ち、そこに全幅の信頼を預けられるようになると奇跡とか日常の常識を超えたようなことが起きるようになる。自分はやるだけのことをやりました、後はお任せしますという心境になると自分へのこだわりが減ってくる。 自分に対するこだわり(我といってもいい)が強すぎると1人よがりになりがちである。そこで誰か自分の親のような存在がいて何かと面倒を見てくれるなら何と心強いことだろうか?

    しかしあまりにそういうものに依存してしまうと自分の努力を放棄してしまうことになりかねない。やはり人間は自分の力で人生のあらゆる問題を解決しなければならず、それなしには進歩、向上は望めない。自分の守護霊や指導霊は決して問題解決の方法を直接教えたりはしない。信仰心は尊重しなければならないが、やはり根本の原理原則(神の摂理)を正しく理解した上でなければならないと私は思う。

    人間には思念の力によって自分の心の中にあるものを実際に創りだす能力があるようである。懸命に一つの対象物に向かって意識を投影していくとそういうものが実在するように見えるのだろうと思う。 自分には実際に見えているが他に人には見えない。観音様、不動明王、その他の仏教の諸天、あるいは天狗や蛇などが見えるというわけである。私の場合、観音様や不動明王、弘法大師の姿が見えていた時期があった。それは今でも意念を集中すれば見えるだろう。

    旧ページのお釈迦様のメッセージというテーマのコラムで釈迦からのメッセージというものを載せている。勿論お釈迦様からメッセージを受けたなどと公言するつもりはなく、唯、実際にあったことをそのまま載せただけなのだが、その頃家にある釈迦如来の仏像に向かって意識を集中すると若々しく溌剌とした人物像が常に見えていた。この場合は観音様や不動明王の場合と少し違いがある。観音様や不動明王が殆ど仏画に表されているイメージ通りであるのに対してお釈迦様として抱いてきたイメージとは全く違いそれまでに見たことのない顔と雰囲気を持っていた。その違いの原因はわからないがお釈迦様と言えば仏画に描かれている姿をお釈迦様と思っている人が多いと思う。

    感性(霊的感性)豊かな人の場合、他の誰かが思念を集中して生み出したものが見える事があるようだ。そういう現象が起きる原因として次のようなものが考えられるだろう。熱心な行者が心に不動明王を念じて行を続けるとこれまでに説明したような現象が生まれやすいだろう。意識を照射する対象が別の仏でも同様であろう。行を積んだ場所にそれが発生してエネルギーとして残っていると後でそこを訪れた霊感のある人の目に触れることになる。そうするとあそこには本当に仏様がいるとか天狗がいる、あるいは蛇、狐がいるということになりはしないだろうか。

    そこであそこの寺社や聖地に行けばご利益がある、本当に神仏がいるという評判が出来る。さらにそれを聞いた人たちが来て拝むことによって一層そのイメージがその場に焼き付けられる。そしてその後も現世ご利益を期待して大勢の人が参拝に来るようになるかもしれない。しかしそこにはここで述べたような現象が起きている可能性があることを理解していたほうがいいと思うのである。

    神の摂理と信心 2

    2013.08.13 08:32|真理を求めて


    熱心にある神仏を信仰していくと実際にその神仏の姿が現れることがある。私の場合を例に取ると過去何年にも渡って観音様を信仰していた事があった。西国巡礼は観音霊場で歴史があり今でも多くの巡礼者があって全国的にも名の知れた寺が揃っている。巡礼の時、次の霊場が近づいてくると観音様の姿が見えてきたものである。

    どこの寺でも本尊があり不動明王を祀っているところも多いがそこに行くと不動明王の姿が見えていた。見えるというのは肉眼(五感)で見るのとは違う。五感は物質を感知するものなのでそれ以外のもので見ていることになる。目を開けていても見えるし閉じていても見える。

    私の娘や姪にもそういう能力があるようで、姪はある寺に入ったら大蛇が見えて恐ろしかったと言う。その寺は昔から蛇にまつわる伝説があるらしい。事実日本には蛇を祀っている寺社も多い。
    なぜそういうものが見えるのだろう。本当に神仏やその他動物の化身のような存在がその場にいるのだろうか?

    今から9年前の夏、私は無謀にも次男とともに北穂高岳に登ったことがある。山登りに慣れていないので自分のペースを掴めずに高山病にかかってしまった。昼前後に山頂に着いたが頭痛と吐き気が治まらず水も飲めない、食事もとれないという状態が翌朝まで続き、素晴らしい山の景観(北穂高岳からの景観は北アルプスでも最高)に浸る事もできず山頂直下の山小屋で寝たきりの状態が続いてしまったのである。次男はこの時もう救助のヘリでも呼ぶ以外方法がないのではと思っていたらしい。

    夢うつつの状態で私はひたすら観音経を唱え続けた。一晩中それを続けたのである。翌朝、台風接近のために全員山を降りなければならなくなった。私といえばその朝も水はおろか米粒一つも喉を通らない。脱水もひどく相当に危険な状態になっていたと思うがここで休んでいるわけにはいかない。意を決して私はガスがかかって視界も悪くなった山を下り始めた。岩場なので一つ足を踏み外せば大怪我につながるし転落死の可能性もある。再び観音経を心のなかで唱えながら下山を続けて何とか涸沢までたどり着いた。標高が下がり高山病の症状も嘘のように消えていた。

    涸沢の山小屋で山菜そば、コーヒー、アイスクリームなどを食べてやっと生気を取り戻すことが出来たのである。あんな状態で山を下りられたのは観音様に守られていたからに違いないと思わざるを得なかった。そして家への帰路、滋賀県の大津にある三井寺(観音霊場で西国巡礼の札所)に寄り、観音様にお礼参りをしてそれを契機に西国巡礼を始めることになったのである。

    極限の状態で観音様など神仏を心に思い描き、祈りを続けると自分の中に一つのイメージが焼き付けられることになる。この時の体験で私の潜在意識には観音様のイメージが一層深く植え付けられたと思う。そしてそれが最初に挙げた神仏が実際に見えるという現象を起こすエネルギーの基になったのであろう。 それは今の科学では解明できないだろうが、当人には確かに存在していると言うしかない状態であり、その説明は次の機会に譲りたい。

    次回に続く

    神の摂理と信心 1

    2013.08.09 04:11|真理を求めて


    何かの宗教の熱心な信者であったにもかかわらず災難や思わぬ事故にあったりするのはどうしてだろうという疑問はよく耳にするものである。特定の神や仏を信仰すればその神や仏は自分を人生の荒波から守ってくれるのだろうか?そう信じ込むことによって心の安定が保たれるのであればそれも悪くはないかもしれない。但し盲信してしまうのはどうだろうか?

    もし特定の宗教を信心していれば神から特別な計らいを受けることができるならこんな便利なものはないだろう。残念ながらそういうことは決して無いのである。人間の作った宗教を信じようが信じまいが等しく全人類に神の法則(摂理)が適用されるのである。そこには一切の目こぼしはない。熱心な宗教の信者であろうが無宗教者であろうが関係がないのである。そして無宗教者だから死んだらいいところへ行けないということもない。

    神(天地自然)の法則は機械的に自動的にコンピューターのように正確に働くのでそこに特定の要素を挟む余地はないのである。真言(マントラ)を何万回唱えようと、徹夜で読経をしようとその法則の働きに影響を与えることは出来ないのである。その働きは宇宙の万物をその秩序でもって統制するようになっているので個人的感情や希望的観測は通用しないのである。だからといって法則は冷酷無比なものではない。一切の不公平はなく(生死を超えて見ることが必要)、それによって本当は誰も不利益を被ることはないように出来ているのである。今だけを観察してみてもそれは当然わからない。

    今でも経文や宗教的儀式が特別で神秘的な力を持ち神のご利益を受けられると考える人は多いかもしれないが、実際はそういうもの自体が特別な力を持っているわけではないのである。 私は一時はマントラや読経に神秘的な力が秘められていると信じていて懸命にそれを続けたものである。海外に行く飛行機の中でさえ経本を開いていたのである。そういう努力は無駄に終わったわけではなく次のステップへの足固めであり、真理探求への実地検証という意味があった。そういうことはその時には分からず後で分かるようになっているものである。それはむしろ分からないほうが都合がいいのだろう。途中の一つの階段でしかないと思っていては真剣さを欠いてしまうからである。人生のあらゆる体験がそうであろう。

    同様に死後、自分のこの世での人生を振り返ってみればあらゆる出来事や体験のほんとうの意味が分かるのだろう。現時点で無理して分かろうとする必要はないと思う。

    次回に続く

    盆に寄せて

    2013.08.05 08:52|真理を求めて
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    今年も盆が近づいてきた。 盆とは何なのか? 私の子供時代、盆の墓参りはこの地方の風習で14日の早朝に行くことが決まりとなっていた。子供にとっては朝早く起きるのは辛いことであり、
    眠い目をこすりながら両親について墓まで歩いて行ったものである。

    先祖が家に帰ってくることを想定して前夜(13日の夜)に家の廊下に灯りのついた提灯を吊るす。 夜中に先祖が帰ってくることになっているので明るくして迎えるというわけである。そして夜が明けた14日の朝墓参りに行く。 しかしよく考えてみたらそれは辻褄が合わないように思える。

    先祖はすでに家に帰っているから墓はもぬけの殻ではないか、では何をしに墓に行くのかという疑問が湧いてくるのが自然であろう。その13日提灯を吊るして先祖を迎えるという夜、私と妻は仏壇の前で読経を始めた。前のホームページでもその夜の出来事に触れたことがある。

    読経をしていると一陣の風が吹いてきて燈明が揺れるとともに目の前を黒い影が横切っていった。
    そしてパキッ、ピシッという大きなラップ音(何もない空間で鳴る音)がそれまでになく連続して響き渡った。
    背筋がゾクッとして鳥肌が立ってくるのを覚えたが読経をやめることなく最後まで唱えた。
    犬が何かを感じて吠えている。

    霊的に鈍感な人の場合こういう現象は起きにくいと思う。そういう音を発生させるためには霊媒体質者が必要でスピリットはその人間からある物質(エクトプラズム)を抽出するのだという。それを利用して何もない空間で音を出すことができるらしい。なんの目的でそうするのか、それはスピリット(霊)側が何らかの意図を持っていることは間違いない。一番多いのは自分たちの存在を知らせようとしているケースだと思う。

    この体験から半年後くらいから私は様々なメッセージを受けるようになった事を考えるとそれは霊界側のある計画に基づいたものではなかったかと今になって思う。そういう現象を起こすことによって霊の実在を身をもって認識させ、次にはメッセージや啓示へと進んでいく為の土台作りであったのかもしれない。其の夜のことは今でも鮮明に覚えているがスピリット側は一人ではなく何人かがいたような気がしている。

    再び盆の習慣の話に戻るが、私は真理の探求を始めるまではそういう習慣の意味を考えたりはしなかった。大半の人はそうだろう。余計な疑問を持ったりすることはなく、今までそういう習慣を続けてきたから続けているだけということになるだろう。それは言い方を変えると関心が無いということでもある。

    人は関心があるから疑問が湧いてくるのであり、無関心であれば疑問が湧いてくることはない。
    何事も疑いの目を向けてみることが進歩、向上の原動力になると思うが、こと宗教的な分野になると思考が止まってしまう人が多い。目に見えない分野なので考えることすら面倒臭いということかもしれない。下手に習慣を変えたり余計なことをしたりすると世間の目が気になる。また先祖が祟ると考える人もいるだろう。

    ともあれ盆が近づき盆休のために帰省ラッシュも起きる。国民的行事ではあるが先祖や近々他界した家族の人たちは実際はこの行事をどのように考えているのだろうか。そういうことを考えてみてもいいのではないだろうか。

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    動物の進化

    2013.07.03 14:52|真理を求めて
     
        あっ、ネコがいたぞ!  思わずチョコの目が輝く。


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    しかしネコは悠然として慌てる様子はない。(この犬は何回か見たことがあるし、つながれているから少しも怖くないよ。それに強そうじゃないしな)と言いたげ。

    人間に最も飼われている動物はやはり犬と猫でしょう。最近は一段とペットを飼う人が増えているようです。動物はやはり野生でいるより人間に飼われて一緒に生活して愛情を受けて育つと霊的に進化するようです。

    シルバーバーチの本によると現在最も霊的にレベルの高い動物は犬だそうです。その次が猿、その次が猫だそうで猫の追い上げが急らしいです。猿は昔は最もレベルが高かったようですが人から離れて野生の生活を続けてきた結果、犬に抜かれて二位に転落したそうです。また怠け者であることも原因しているようです。ネコに追い上げられているとは面白いですね。

    犬も猫も人間のそばで生活し、家族同然に可愛がられているのでどんどん霊的に成長しているとのことです。猿も人と生活するようになれば霊的成長が進むのでしょうが性格的にもちょっと犬や猫とは違うようです。

    いずれにせよ動物は将来的には自分の種族の類魂に帰還していくそうですが、その中から人間としてこの世に誕生してくるものが現われるとのことです。また人間であったものが動物として転生してくることはあり得ないとのことです。逆はないのです。この辺が仏教の六道の輪廻の思想とは違います。

    例えば家で飼っている犬や猫に愛情を注ぐことはその類魂全体の進化にプラスになるので神の造りたもうた宇宙生命の進化、成長に貢献することになるのです。



    瞑想の話

    2013.06.03 14:19|真理を求めて
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    瞑想に入る前には何と言っても感情の動きを静めることが大切で、それが出来なければ進めません。簡単な事ではありませんが訓練を積めば何か嫌な事があったりしても感情を収めることが出来るようになるでしょう。それには最初に「自分の本質は霊(スピリット)であり肉体ではない」という観念をしっかりと植えつけることです。それが土台になっていることが大切です。それに最も適したものは「シルバーバーチの霊訓」をしっかりと読むことでしょう。その本の中で「あなたの本体は霊でありその肉体はあなたではありません」というフレーズが何回も繰り返されますがそれを読むうちに自然に身についてきます。

     

    瞑想に入って次のような気持ちになれたらかなり前進しているといえるでしょう。

     

    「今肉体を通して自己表現している私は自分という本体の一部に過ぎない。その大いなる自分がこの肉体を通して地上世界を探査しているのだ。今この身に起きていることは必然であり、自分の進化の為に必要だからそれを体験しているのである。重大な事のように感じるけどそれは永遠の人生の中のほんの一コマに過ぎない」。

     

    そして自分の本体であるスピリットとして身の回りに起きていることを観察してみるように努めます。それは結局物質の目から霊の目へと意識をシフトさせると言い換えてもいいでしょう。色々と気になる事があって振り回されているけど、そういうものは大した事ではないと思えてきます。そう感じる時はかなり高い意識の波動(バイブレーション)になっているといえるでしょう。そして霊界の人達と通じやすくなっています。

     

    そういう時に温かみや優しく自分を包み込んでくれるものを感じることがあるはずです。

    それは自分の指導霊や守護霊、そして他界した家族ではないかと直感的に感じると思います。とにかく温かくて優しいものを感じたらこちらも幸せな気持ちになってきます。

    そして彼らはこんなに優しくて心地よい存在ならば、死ぬことは少しも怖くない、むしろ早くあちらに行きたいとさえ思うはずです。

     

    霊的感性豊かな人ならその相手のイメージが目の前に浮かんでくることがあるでしょう。

    肉眼で見るのではなく脳裏に浮かんでくるという感じで、それは目を開けても閉じても同じです。そこで相手が何かを伝えようとしていることが何となく分かるような気がすると思います。彼らは発声器官がないので思念で伝えてきます。

     

    私の場合、相手は何を言いたいのかな?と思っているとしばらくしてそれが言葉になっていきます。結局テレパシーの伝搬ではないかと思っています。しかしそういうものが無くても温かみを感じるだけで随分満たされるでしょう。それは言葉で表現できない世界です。

     

    ポイントは如何に自分を高い意識に誘導していくかということで、その裏付けとなるものが自分とはスピリットであり肉体ではないという観念ではないかと思います。それは事実なのですからそれをしっかり認識し身に付けることが大切でしょう。

     

    瞑想の一番の目的は自分自身を高めることです。霊界の親族との触れ合いは二次的なものであり自然に身についていくものですから、急ぐことなく毎日の積み重ねが大切だと思います。

     




    自由への旅立ち

    2013.06.02 09:46|真理を求めて
     

    最近は家の特定の場所(神の間や仏間)にいなくても静かで清らかな場所に来たらすぐに瞑想に入れるようになってきた。そよ風の吹く景色のよい海岸、高台、山から海を見下せる場所、もちろん自分の気に入った神社もそうだ。日課となっているワンボックスでの愛犬の散歩中、海沿いの道で車を止めて休んでみたらすぐに体制が出来る。規則的に打ち寄せる波の音はとても良い。遠くに半島や瀬戸内海の対岸が見えるのもいい。そして誰も来ない。

     

    霊界にいる人達からのメッセージの受け方も変わらない。してみると人がどこにいようと常に霊的世界とつながっているわけで特定の場所は必要がないということになる。要は自分の意識の波長さえ整えることが出来たらいいわけである。あちらの世界から見れば元来、地理的条件には影響されないだろうから、こちらがどこにいようが関係がない。それは外国に行こうが地球の裏側に行こうが同じであろう。

     

    私にとっては神棚や仏間、寺や神社などは次第に必要がなくなりつつある。唯、意識の波長を変えるきっかけになるものがあれば十分だ。神は霊的エネルギーであり宇宙に普遍的に存在しているのだから神のいない場所はどこにもないわけで当然といえば当然であろう。私はこの世を去った後は自分の墓も仏壇も要らない(でも家の墓はあるが)。よく自分が死んだあとはどの墓に入ったらいいのか、配偶者と一緒は嫌だなどと話をしている人たちがいるが、人はこの世を去ったあとはそういう事を考えても意味がない。愛の無い配偶者とは同じ墓に入れても霊界ではバラバラになってしまうからである。

     

    最近自分の中の何かが自由を欲しているのを感じるようになってきた。もう仕事をしなくていいというだけで大きな束縛が取れているのだから、後は自分の出来る範囲内で余生を楽しみたい。暫くしたら海の向こうでこのブログを更新しているかもしれない。そういうことを感得するには海岸沿いの道に車を止めて瞑想するのはとてもいい。


    幽界の救済施設

    2013.05.22 16:01|真理を求めて
     


    近頃青少年の自殺がよくメディアで報道される。原因はいじめが多いようだが青少年は情動が不安定で何かあると気持ちが振られ易い。自分の若い時を思い出してもそうであった。それなりに人生経験を積むと何か壁に突き当たった時に他の選択肢を考える余裕も出てくるが、経済的にも自立していない青少年の場合は自分の進路が塞がってしまったように感じられるかもしれない。

     

    心の世界のことは世の中で未だ理解されているとは言えない。この種の事件において当人以外に他の何者かが関与していたと言っても社会的に理解されないかもしれないが、私はある霊界通信においてその事を実感することが出来た。

     

    人間は気持ちが落ち込んでいる時には霊的なエネルギーが枯れて心に隙が出来る。もう死んだ方がましだと考えるようになると自動的に見えない世界からその力が働くようになるのである。一度思ったくらいでは実行するには至らないだろうが慢性的にそういう思考に支配されるようになるとリスクが高まってくる。自身の心の波長が低いところをさまようようになると似たような波長を持った者が寄ってきて影響を及ぼすようになる。最後には背中を押されて実際にやってしまうのである。

     

    それが地縛霊である。浮遊霊、不成仏霊といってもいい。この種の者が多くの青少年の自分で人生に終止符を打つ陰の原因になっているのではないだろうか。通り魔事件の犯人の背後にもその種の地縛霊が暗躍していると思う。日頃から世の中を恨み復讐心に燃えていたりするとそういう者に憑依され、電撃的にやってしまうのである。以前から似たような事件が繰り返されているが、背後には憑依という現象があると思う。

     

    これまでは自分で人生を短縮してしまうと長い間暗黒の境涯に置かれて自責の念に苦しむという解釈がなされてきたようだが、それも動機や状況によって変わるだろう。根本は自己責任ということになるが誰かにそそのかされたり、やむを得ぬ動機の場合は反省の期間は短縮されるようである。特に若い人の場合は積み重ねた人生の業が年齢を重ねた人よりも少ないこともあり立ち直りは早いようである。

     

    そして霊界(幽界)にはそういう人たちを立ち直らせる救済(更生)施設のようなものがあるようである。似たような境遇の青少年を集めて再出発させるための教育が行われているようだ。あちらの世界には病院や図書館、集会所、コンサート会場など大体地上と似たような施設があるらしいから当然更生施設もあるだろう。そしてそこで教官のもとで指導を受け十分反省した後には奉仕活動に出るという。その内容は主にかつて自分がやった過ちを他の者が繰り返すことのないように働きかけるのだという。

     

    人生途上で終わった場合は霊界でその続きが行われることになるだろう。あちらでは類似体験をすることが出来るようである。もしどうしてももう一度この世に生まれ変わってきて人生をやり直したい場合はこの世に再生してくる場合もあるだろう。私の友人の場合は2年ほど経ってかなりはっきりと存在が感じられるようになっている。以前はぼんやりとしか彼の事が感じられなかった。これからやることを見つけなければいけないと思っているようなので立ち直ってきているのだろうと思う。神は絶対に私たちを見捨てることはないし私たち自身が神の一分子だから神との縁が切れることはないのである。

    しかし自分で人生を短縮してしまうことは神の意志に反することなので、当然それに相応する罰を受けなければならないのである。若い人が安易に自分の人生を閉じることのないよう祈って止まない。若い人も霊的真理の知識と、ものに動じない強い心を持って欲しいものである。




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    祈り、瞑想

    2013.05.02 16:58|真理を求めて
     
          朝の祈りの間で。愛犬も神妙な顔になる。


    祈りと瞑想はワンセットで行うことが必要だと思います。どちらも一朝一夕に上達するものではありません。祈りとは神に自分の心の波長を近づけようとすることです。自分の向上と進歩、心の浄化を神の前で誓うのです。神は先刻こちらが考えていることは御存知ですが、自分の決意を神の前で誓うことによって志が一層明確化されることになります。その時は自分の全てを神に預けるという心境になっていなければいけません。

     

    そうすることによって清浄な気分になることが必要です。心身共に清浄な気分に満たされたところで瞑想をしてみます。慣れないとその時に雑多なものがビールの泡のように際限なく浮かんでくるものです。そこで最初は何かのシンボルを見つめるとよいでしょう。そのことによってあちこちに飛んでしまう自分の心を制御することが出来るでしょう。それでもダメならその日はそれ以上やっても意味がありません。

     

    自分にとって瞑想するに適した時間を見つけることも大切でしょう。一般的には早朝がいいと思いますが主婦の人は家事に追われ容易な事ではないかもしれません。実は今、ショパンを聞きながらこれを書いています。私はショパンの音楽を聴きながらこのブログを書くことも多いです。昔から著名な音楽家は霊界からのインスピレーションで作曲してきたのですからクラシックの名曲は霊界からの響きなのです。

     

    祈りと瞑想は日常的な意識から非日常的な意識への切り替えをすることです。それによって自分に内在するものを引き出す事が出来ます。それは大いなる自分であり神性を帯びたものでもあります。新たな自分を発見するきっかけになるでしょう。自分の向上を願うことが第一でありそうなれば自然に霊的能力も磨かれてくることでしょう。現代はとにかく機械文明によって人の本来の霊的能力は抑え込まれています。祈りや瞑想を続けることによって本来の能力が少しずつ目を覚ましてくるというわけです。

    百ヶ日

    2013.04.08 10:24|真理を求めて
     

    低気圧が通過後も強風が吹き荒れた日曜日、この間他界したおじさんの百か日の供養を頼まれ、妻と二人で近くの親戚に出かけた。それはおじさんの長年連れ添った妻とその子供たちが集まった和気あいあいとした雰囲気のなかで行われた。読経や妻のご詠歌の始まる前からおじさんが現われた。
    仏壇の隣が床の間になっていてその前でおじさんがにこやかな表情で立っている。立っているというより上半身の姿が見えてその姿は若々しく、晩年の病気がちの姿とは別人のようになっている。

    参加者は気のおけない人たちなので私は、今おじさんがここに現われているよ。見える?と話しかけてその状況を彼らに説明した。

    おじさんの子どもが「へー?私には見えないよ」。 
    「見えないか?」と私。

    今回はおじさんは儀式が終わるまでその場を去ることがなかった。我々と共に愛に満たされた一時を過ごせたことだろう。こういうと失礼かもしれないがこういう場にはあまり他人がいないほうがいいようである。そういう意味からも義理で葬儀や通夜に出るというのは本当は空しい事である。


    そういう極めてなごやかな雰囲気のなかで私たちは久しぶりに観音経を唱えた。この経は西国巡礼のときにずっと唱えてきたし家でも毎日のようにやっていた。西国巡礼の時の思い出が蘇り思わず目頭が熱くなるのを覚えずにはいられなかった。もし我が家で葬儀をすることになったとしても我々だけで出来るし自由に葬儀というセレモニーをアレンジすることが出来る。家族が一人ひとりメッセージを伝えればいいし、もしあちらの世界に旅立とうとする人がメッセージを伝えてきたら私はそれを皆に伝えることも出来るだろう。参列者は家族を中心として縁の濃い人のみで充分だ。素敵な葬儀が出来るだろう。

    一連の読経や詠歌の奉納が終わり私はおじさんの子供たち(といっても50代から60代)一人一人におじさんからのメッセージを伝えた。とても感動的で笑顔の絶えない百か日の供養であった。


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    シルバーコード

    2013.03.09 16:41|真理を求めて
     

    急激に気温が上がり、花粉と黄砂と最近のPM2.5とかいう中国からの微粒子が飛び交う中、私は介護施設に入所中の実母を高松市に見舞いに行った。私は生後6か月で彼女の姉夫婦である今の家に養子に来たので、これまで実母を叔母と呼び養母を母と呼んできた。ここ数日気候の変わり目のせいかメニエールの状態は芳しくなく、その前夜は凄まじい耳鳴りが朝まで続いていた。目眩もあるがそれにはかなり慣れている。とはいうものの道中のフェリーのなかで目眩の特効薬を飲んだ。田舎では刺激が少ないが、都市部に出ると行きかう車や大勢の人の動きが一層目眩を誘発しやすいからである。

     

    東京から飛行機で来る姉とほぼ同じ時間に施設で合流した。そこで見た叔母(実母)はもうすでに霊が肉体から去りつつあるように感じられた。食欲は肉体をこの世で存続させる最も基本的な機能であり、最後は食欲も尽きてやがて肉体が枯れて霊は肉体を去り非物質の次元で生活するようになる。それが自然の生命の営みであろう。叔母はまだ食欲は持続しているがそれも身体状況の変化に応じて変動するものである。昔から食べなくなったら終わりとよく言われてきたがその通りだろう。食べられなくなった人を点滴で人工栄養で生かしたり、胃ろうを施して食べ物を流し込むようなことは自然の法則に逆らうことであり当人を苦しめるだけなのである。もう早くこの世を去って安楽なところに行きたいのに、それを無理に引き留めることになるからである。

     

    叔母の寝ている横で姉ともそういう話をして、終末医療は拒否しようということになった。叔母は意識はぼんやりしているけどその話を聞いて少し理解しているかもしれない。個人差はあると思うが裏では霊としての意識が少しずつ目覚めて来ているはずなので何も感知しないということはないと思う。クリアーではないがぼんやりと理解しているのではないかと思う。だから当人は認知症だから何もわかっていないと思って悪口などは言わない方がよい。私と姉は叔母の横で「もう本当はあちらの世に行きたいのに肉体に束縛されているから行けないんだね」という話もした。

     

    人が死期が近づくと霊体と肉体を繋いでいるシルバーコードが次第に切れかかってくる。大きなものが2本あり一つは額のところ(アジナチャクラと呼ばれる)、もう一つがみぞおち(太陽神経叢)のところである。いわゆる認知症は脳が機能低下を起こして額のところのシルバーコードが役に立たなくなった状態らしい。霊の指令を脳が正しく受信できなくなってくるのでシルバーコードが意味を為さなくなりやがて切れる。シルバーコードを通じて霊的エネルギーが流入するので肉体が生きていられるわけだが肉体(脳)が機能マヒになると霊的エネルギーがストップしてしまうから人間は本能的欲求以外の事を表現出来なくなってしまう。

     

    頭のシルバーコードが切れてもみぞおちのシルバーコードが繋がっていれば肉体はまだ生存に必要な最小限の機能を維持する。頭とみぞおちの2本が同時に切れれば理想的な死に方になるということだが、最近は必要以上に高カロリーの食べ物を与えてしまうので何時までたっても肉体が枯れて来ない。それが自然な死というものを妨げているのかもしれないし、認知症多発の原因になっているのかもしれない。だからいたずらに平均寿命が延びたなどと喜ぶことではないと思う。


    姉は最近3年前に他界した父(私にとっては叔父で今まで度々霊界通信に登場してきた人)がこの世とあちらの世の境界なしにいつでも身近にいるように感じるようになってきたらしい。また彼女は死ぬことは少しも怖くなく、いつ死んでもいいと言うがそれは私も同感である。兄弟で霊的真理を実践しているということなのかもしれない。

     

    彼女は旅行好きで彼女の父が危篤状態の時に海外に行っていて、親族の者は姉が葬儀に間に合うか心配していたらしいが彼が死ぬ数時間前に病院に現れちゃんと最期を看取っている。父は姉が来るのを待って息を引き取ったということになるが世間でよくある話である。事実そうであろう。


    これなどもやはり法則が働いているといってもいいかもしれない。霊界ではあらゆる要素を考慮に入れて迎え入れる準備をしていることだろうから。

     

    葬儀は身内だけで、坊主はいらない、静かなクラシックの音楽を流して子供や孫が(希望者のみ)一人ずつメッセージを朗読して最後に皆で「千の風になって」を歌う(これは今私が思いついた事)なんていうのはどうだろう。もし読経が必要と思うなら出来るし妻は御詠歌のエキスパートなので魂に訴える詠歌を唱えることが出来る。霊の世界に通じていない僧侶が来て儀式をして何十万円も布施料を払うなんて馬鹿げているよ。姉とそういう話をした。どういう形の葬儀になるかは長兄が一家の責任者なので彼の判断次第である。

     

    96歳の叔母がこの世にいるのも長くはないであろう。本人は叔父の待つあちらの世に行きたがっているようだ。4人の子供を産み(私も含めて)愛の心で育ててくれた叔母。この世の役割も全て果たして後はあちらへ引っ越すだけ、安らかに導かれて旅立ってくれるよう祈っています。




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    檀家制度は終わった

    2013.02.16 14:52|真理を求めて
     

    この地域の現状を見るにつけ仏教は葬式仏教という以外に表現のしようのない状態になっている。人々は葬式以外、寺は必要がないのである。檀家と寺との関係は約300年ほど前に檀家制度が出来てからは檀家の者と寺が互いに助け合って寺院を維持してきたという。そこにおいては寺は仏教の教えを学んだり地域の文化的交流の場になってきたのであろう。しかし今では誰も寺に寄り付かない。この地域の状況はかなり極端かもしれないが他にもそういうところはあるだろう。

     

    すでに檀家制度は崩壊しているのである。もし人々が本気で仏教の教えを学びたいと思うなら自由にどこにでも行くことが出来るので、何も気に入らない地元の寺に行く必要はない。寺の方ももし本気で仏教を学びたいなどという人間が訪ねてきたら戸惑うに違いない。何故なら寺自身が少しも仏教を実践していないからである。下手に説教などすると自分が悟っていないことがばれてしまう。真摯に真理を追究している人間には誤魔化しは通用しない。

     

    どこにでも法話をする僧侶はいるがよく聞いてみると必ず一つのパターンがあることに気が付くだろう。「お釈迦様はこう言いました。お大師様はこう言いました」というセリフは多分最もポピュラーなものだろう。しかし自分の考えで「こうです。真理はこうなっているのです」というセリフは聞いたことがない。自分に本当に確信があるなら誰かの受け売りではなく自然に自分自身の言葉として現れてくるはずである。自分の言葉で言わないのは確信が持てないという事と、他人の言葉を受け売りする事でもし間違っていても自分の責任にはならないという逃げの姿勢が見て取れる。

     

    仏教関係の書物を見ると、乱れた世を立て直すには「今こそ仏教に還るべき」などという言葉を見かけるが肝心の仏の弟子であるべき僧侶が少しも仏の教えを実践していないし、むしろ真実の教えを邪魔しているのだからどうしようもない。仏像、教本、衣、伽藍その他の装飾物は唯のシンボルにすぎない。人間は自身の中に神を宿しているのだからそんなものは必要がないのである。


    自分の神性を見出し人生体験の中で表現していく事こそが人がこの世に生まれてきた目的であろう。単純に言って「自分以外の誰かの為に尽くす事」。それが仏教に限らず全ての宗教の根本であるはずである。

    因襲の世界

    2013.02.11 16:59|真理を求めて
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    相変わらずこの地域では葬儀が多いが、葬儀に行くたびに自分の中にある日常意識とは別の意識というものが拒否反応を起こしてくるのを感じるようになってきた。因習だけの儀式はもううんざりなのである。霊的事実とそこに行われている事の乖離の大きさがある種の不快さとして感じられてしまう。僧侶の読経を聞く度また聞かされるのかと思ってしまう。バンバンとシンバルを鳴らすのも耳障りであり霊的交流とは無縁の世界である。私は彼らの読経を聞いているうちに体がしんしんと冷えてきたので中座して式場から出てしまった。地区の役員をやっている頃、よく葬儀の手伝いをして式場のことは勝手を知っている。

     

    お経の内容と今あちらの世に旅立とうとしている人の環境とは何の関連性もない。唯、古くからやってきたのでやっているというだけのこと。彼らはそのことに疑問を感じることはないのだろうか? 少しは霊的真理を勉強したらどうなのか。その引導儀式とやらをして1時間で30万円もの布施料を取る。しかもその寺は各家ごとに違う料金の“布施料のお知らせ”という文書を配布していることが発覚している。それでもこの辺の人達は怒らない。“破れ鍋に綴じ蓋”という言葉がまさに当てはまる。私はとうに檀家を離脱しているので直接関係はないがこの辺の人達の精神構造は理解しがたい。その寺は以前にもましてあこぎな事をやっているのだが。

     

    また葬儀があるたびに香典を包まなければならない。そして49日や一周忌などがあるたびにそれが続く。仕事を辞めた今では収入源はスズメの涙の国民年金のみ、交際費はバカにならないのである。葬儀があるという話を聞くたびうんざりしてくる。何で人がこの世を卒業してあちらに旅立つ時に金ばかり出さなければならないのか。

     

    ともあれ少しばかり霊的感性のある人間にとってはそこで行われている内容の意味が普通の人よりは深く洞察できる。何という空しいことをしているのかと思うが殆どの人達にはそれは見えない。それが今の私のジレンマなのだが、我慢することの修業をしていると思う事にしている。

    私はあの喪服というものが嫌いで葬儀や通夜は仕方ないが49日やそれ以後の行事は私服で通す。時々数珠も忘れる。教本を見て読経をすると他界者からの通信はぱたりと止まってしまうので通信を聞きたい時は読経はしない。

     

    世間では仏式の葬儀が最も多いと思うが列席者は仏教のこと等殆ど分かっていない。唯、慣習の通りにしているだけでそれを仏教を実践する事だと思っている。しきたりに通じることが宗教的であると勘違いをしている人が多い。本当に仏教を実践している者は宗教者を含めて極めて少ないと思う。一般大衆よりもむしろ宗教者の方が物欲に捉われて物質的な生き方をしているのだが当人にその自覚はなく周囲も無頓着である。

     

    ここしばらくは確定申告の作業に追われこのブログの更新も出来なくなっていたがようやく峠を越した。去年2か月しか仕事をしていないのに確定申告しなければいけないのも辛いがやらないと今後の為には何かと不利である。書類を探したり電卓を叩くのは好きではないがこれも物質世界の宿命である。そんなことをしなくていい他界した人たちは実はうらやましい環境にいるのに地上の人間は死を極端に恐れる。上にあげたような因習に縛られ真理を見出せないでいるのを見るのはとても悲しい。

    供養の儀式と霊的事実

    2013.02.03 11:01|真理を求めて
     

    49日が終わった数日後に“日のおかんき”というものが行われた。それは命日の供養ということだが丁度死後一か月経ったわけである。正月を挟んだのでこういう変則的な日程になったわけである。49日が終わっているのにまだ中陰供養の延長みたいなものをするのは変な話だが親戚なので出ないわけにはいかない。それに彼らは善良な人達なのだから。

     

    夕方供養の儀式に出かける前にふと神棚の前に行きたいと感じ、行っていつもの様に精神統一をしてその場の波長に合わせてみると再びおじさんが現れた。そして彼の長女の婿(2年前に他界)が続いて現れ私に意志を伝えてきた。それは残された妻宛のものであったが彼が直接意念を送ってきたことは死後初めての事であり、私は彼からのメッセージを便箋に書きとめて後で彼女に渡した。その内容はプライベートな事なのでここで公表しないほうがいいと思う。

     

    出かけるための準備をしているとその親戚から電話があり予定を早めたので皆来ていてもう始まっているから早く来てほしいという。そういう時私がよく感じている事はわざわざそこに行って慣例的行事をしなくても本人はここに来て現に対話しているのに……..。と思ってしまうのだがこればかりは自分にしかわからない事なので仕方がない。

     

    行ってみたらすでに行事は半分以上終わっていたがやはりおじさんが現れた。今回は何やらきょとんとした雰囲気が窺われたが、彼は皆と同じ席に座っていてその行事に参加しているようであった。アレッ、もうワシの49日の法要は終わった筈なのにこれは何だ? 私はおじさんの気持ちの中にそういうものを感じてしまったがこれは内緒にしている。

     

    葬儀をすることは次の世界への旅立ちを祝福する卒業式のようなものであり、霊的にみれば本当はそれ一回きりで十分なはずである。後で中陰供養をするといっても2回もやれば十分ではないだろうか。死後の導きは霊界主導で行われるので未熟な地上の人間が余計な事をする必要はないと私は思っている。あまり何回もやっていると相手が理解力不十分な魂の場合、混乱が生じてくるのではないだろうか。彼らは地上への執着を切ろうと努めている時期だろうから。

     

    他界者側から見れば、自分は盛大に式をして送り出されたのに地上では似たような事をまだ続けているではないか。これは一体どうなっているのだろうと思いはしないだろうか。地上から葬式後も何度も人々が集まって自分に念を向けられると気になるはずである。彼らは地上からの思念は我々が考える以上に敏感に受け取っているからである。過度の供養儀式は不要であり、あえてそういうものを繰り返さなくても他界した人たちは必要なときは何時でも家族や愛する人達の傍に来られるのである。地上界の愛する人々と彼らとの絆は儀式をするしないに関係なく続き、むしろ生前より強くなっているのである。


    霊界の通信網

    2013.01.28 15:44|真理を求めて
     

    この間他界した親戚のおじさんの中陰供養と、少し早いが49日法要も終わった。生前はめったに顔を見ることもなく、ここ何年かは会話をしたこともなかったが彼の死後は急に今までよりも彼の存在が身近に感じられるようになった。地元の詠歌のグループによる中陰供養の場においても彼は祭壇の前に現れ頭を下げて皆にお礼を言っていたし、私に彼の家族へのメッセージも伝えてきた。そこで私は後で彼らにそれを伝えることになるが、そういう場合一番気を使うのがそういう霊的な事に理解がない人にどうやってそれを伝えるべきか思案するのである。他の人達が一緒にいるような席では言えないので後でタイミングを見て知らせたり、あるいは後で電話で伝えたりする。我が家では普通になっていることでも理解のない人には安易に言えないのである。それが今の私の悩みの一つであるがそういうものを聞いた以上は何とかして伝えなければならない。聞いた人間にはそれを伝える義務が生じてくるのである。

     

    今回はすでに数回メッセージが来たがそのいずれも家族に伝えてきた。それはとてもスムースに運び家族もとても喜んでくれたが、仕事を辞めた今はそういうことが私の大きな喜びとなっている。向こうでは相手がメッセージなどを受け入れてくれるような人間かどうか考慮に入れた上で私に通信を送っているのだろうと思う。そこで振り返ってみれば、殆どのケースでそのおじさんと共に父が現れていた事を考えてみると父がおじさんからの通信を仲介していたのではないかと思うのである。生前から霊的な知識が全くなかった場合、地上の家族に自力でメッセージを伝えるということはまず無理だろう。いくら肩を叩いても大声を上げても霊感のある人間がその場にいない限り誰も分かってくれないと思う。

     

    父は昔からそのおじさんや家族を色々と援助したりして面倒を見ていた。おじさんの子供達の名付け親でもあり、父は彼らから尊敬されていたのである。今も他界したばかりのおじさんの指導霊として色々と面倒をみているに違いない。そう考えるとこの世で築いた心の絆はあちらの世に行っても途切れることなく続いているのであろう。死後は物的なものが全て消滅し、残るのは愛、あちらに持っていけるものは愛の心なのである。

     

    霊界の通信網は通常の地上の人間には到底理解しがたいと思うが、彼らはこういう通信網を通して地上に意志を伝えてくるのであろう。私の場合も霊界通信を感得出来るケースは限られているので誰でもというわけにはいかない。何らかのつながりがなければ通信は成立しないのである。

     

    今回は通夜と葬儀の場においては何も感じ取ることはできなかった。おそらく彼は眠りについていたのだろう。今まで通夜の席で故人からの思念を感じたケースは一度もないところをみると通夜では当人は眠っているのだろう。葬儀においては半数以上は覚醒しているようだ。その場合当人の親やその他指導霊に付き添われて葬儀を見ているようである。祭壇の前で出席者にお礼を言っている光景(肉眼で見えるのではない)はよく見てきた。

     

    何百万円も使って大々的に葬儀をしても当人はそれを知らないかもしれないという事実を知ったら遺族は果たしてどう思うだろうか? 葬儀やそれに伴う一連の風習は霊的事実に基づいたものではなく殆どが世間体など地上的な価値観によって行われていると思う。借金までして葬儀をしたり、遺族がやっとの思いで差し出した寺への布施料が実は高級志向の寺の人間の贅沢に使われている事を知った時、他界した人はどう思うのだろうか。

     

    ともあれ彼は今はあちらで幸せそうである。朝の祈りの場で父とともに現れたことがあるが二人ともニコニコしていてとても良い雰囲気だった。そういう場合はこちらもとても幸せな気分になれるのである。


    観音様の御札

    2012.12.21 16:33|真理を求めて

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    写真は
    2004年のちょうど今頃、西国巡礼で京都の清水寺にお参りをした時に買った御札である。
    清水寺の本尊は十一面千手千顔観世音菩薩でありその本尊の姿が描かれている。

    清水を訪れた夜のエピソードは聖地を訪ねて(鳴る鐘というテーマで以前のホームページに載せているが師走の京都はとにかく寒くてその日は疲労困憊したことを覚えている。

     

    以前のページのインスピレーション集の中の観世音菩薩の名で載っているものは殆どこの御札を観想して得たものである。仏壇で祈りの後この御札を見ながら静かに瞑想していると額(真ん中から少し左より)や頭頂部がジーンとしてきて五感を超えた見えざる世界からの通信というものを私は感じ取ってきたのである。

     

     

    神仏(昔から神仏と表現されてきたものは実際は自分の守護霊や指導霊)に対して祈ったり指導を仰ぐ場合、何か意識を集中できるシンボルがあったほうがやり易い。自分が心から敬えるものであれば、お守りや御札、あるいは写真であろうとそれは関係がない。また海や山など清々しい環境の中に身を置くのもとても良く、要するに自分に合ったものを選べばいいのではないだろうか。伊勢神宮の正宮の写真も良い。

     

    この写真の観音様の御札こそが長きにわたり私の心の支えとなってくれ、これまでに貴重な啓示を一杯もたらしてくれたのである。

    それはこの御札自身が特別な力を持っているというよりも、あちらとこちらの世界を結ぶ通路となってきたのであろう。今もこの御札は仏壇の一番奥の真ん中に置かれていて先祖の位牌を従えているような配置になっている。しかしよく見ると位牌というものは暗く感じられる。昔の位牌は黒いものが多く一段と陰気臭い。昔から人は先祖をこういう形で位牌や墓に閉じ込めてきたのである。それは他界した人に対する自分の心を閉じこめているだけなのだが。少しずつではあるが人々は真実に目覚めその視野も広がっていくであろう。

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    祈りの時間

    2012.11.07 16:31|真理を求めて
     
               (双子浦から見る瀬戸内海)

    私にとって毎朝の祈りは欠かせないものになっている。その日の条件によっては祈りをする部屋に入っただけで違う次元に入ったなと感じることがある。ここ数年は読経など形式的なものはあまり使わずに自分に自然に出てくるものを使うようにしている。以前は必ず般若心経や観音経を仏壇の前で唱え、神棚の前では祝詞を奏上することにしていたのだが、今はその時の自分の感性に従うようにしている。また長い祈りはやらず、時間のない時は口に出さずに心の中で祈るだけのこともある。祈りよりもその後の瞑想の時間の方が長くなっている。

     

    何か重要なことを決断しなければならない場合、果たして自分が今こうしようと考えていることは正しいのか(神の摂理に叶っているか否か)を判断する確証を祈りの後の瞑想から得ることもある。自分の計画している事と瞑想によって導き出されたインスピレーションが一致した場合は安心して行動に移すことが出来るが、もう一つすっきりしない場合は計画を考え直すことにしている。但し、すっきりしないからと言って何度も確証を求めるようなことをしても意味がない。

     

    五感を超えた霊的な自分というものを少しでも感じることが出来たらそれだけで祈りの価値があると思う。神聖で崇高なものを感じ取ることが出来れば自分は肉体だけの存在ではないということが身を以て分かると思う。そういう感じを掴むことが出来れば死んだとされている人たちが身近に感じられるようになる。彼らはこの感覚と似たような環境にいるのだなとわかり、死というものは怖がるものではなくむしろ希望をもって見られるようになると思う。要するに祈りは霊的世界との交通路であり、それによって生命エネルギーを貰うことが出来る。人は意識するしないにかかわらず全生命の始原(神)から霊的エネルギーを受けているので、地球生命系の頂点である人類として存在していられるのである。

    霊障、祟りは作り話

    2012.09.26 09:34|真理を求めて
    夕日 

    先祖の祀り方が悪いと霊障が起きて家が不幸になったり誰かが病気をしたりするという話がまことしやかに信じられているようですがそれは迷信に過ぎません。他界した人がかつての自分の子や孫を不幸に陥れるようなことをするでしょうか? それはよほどの憎しみでも持たない限りあり得ないでしょうし、もしそういう事をすればそれは自分の霊的成長を阻害する事は明らかです。

     

    あちらから地上の人間に対して直接何かを行使するということは非常に難しい事だと思います。相手が相当に霊的エネルギーの操作に熟練している場合、位牌をカタカタ動かしてみたり停電を起こしたりという物質現象を演じてみせるくらいの事は出来るかもしれません。出来たとしてもその程度の事です。ましてや地上の人間に病気や怪我をさせるなどということは出来るものではありません。原則としてあちらの世界にいる人は地上に対して直接手を下すことはできません。

     

    私の経験でも他界した親族は殆どインスピレーションや夢で自分の思いを伝えてきますが、ある程度霊感のある人間でなければ容易には受け取ることは出来ないでしょう。殆どの人は何も気づかずに毎日を過ごしている事だろうと思います。

     

    私は思春期の頃よく祖父の言う事に逆らって怒られたものです。ある時など「わしが死んだらお前に取り憑いてやる」とまで言われました。実際、ここに書くのはためらわれるような出来事もありました。でも家の中で祖父の気配を感じることは全くありません。祈りの時にも現れるのは父と祖母だけです。父とは今までよく交信してきましたがその内容は主に旧いのちの波動の「死後の世界」に掲載しています。祖母は時々仏壇で気配を感じますが静かにこちらを見ているだけです。娘は子供の頃祖母がドア越しにこちらを見ていたのを目撃しています。我が家ではそういう話は少しも珍しいことではなく日常的な出来事になっています。

     

    あちらの世界に行った人達は肉体と物質の束縛から解放され遥かに豊かな世界で暮らしています。そういう環境にいる人たちにとってこの物質世界は魅力のある所ではないはずです。中には分からず屋もいていわゆる地縛霊化した者もいることでしょうがそういう者も何時かは悟ることになるでしょう。とにかく先祖が自分の子孫に対して祟るなどということは余程特殊な事情でもない限りあり得ないと思います。何かのサインを送ってくることは当然あるでしょうがそれは子孫の為を思っての事でしょう。

     

    墓や仏壇をはじめ先祖供養をきちんとしないから先祖が子孫に対して復讐するなどということはあり得ないことです。他界した人のその後のことは霊界主導で行われるので地上の者が先行きを心配する必要はないと思います。霊障とか祟りなどというものは自分の心が作るものではないでしょうか。人の想像力は豊かなので心が不安に傾いていると自分の想像力でそういうものを作ってしまうのです。

    オーラの話

    2012.08.05 15:41|真理を求めて
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    盛夏の季節、島でコンサートがあった。今年で10回目となるが毎年島外からハワイアンやジャズのミュージシャンを呼んでいる。今年はハワイアンとボサノバである。兄の会社が主催ということもあり私は毎年行っているが今年も体調がすぐれないけど見に行った。メニエールの為に右の耳に聴力障害があって以前のようにいい音が聴き取れないけどコンサートに行くのは何より気分転換になる。

    ここで注目はダンサーの体を取り巻くオーラです。ちょっと目のフォーカスを調節してみると白っぽくやや青み(薄い緑色?)がかったものがダンサーの頭や体を覆っているのが見えます。厚みは10から15cmくらいでしょうか。肉眼で見えたので写真を撮ってみました。何も意識せずに見たら気が付かないでしょうがやはり写真にも表れます。オーラを見るにはちょっとしたコツがありますが基本的には元来人間に備わっているサイキックな能力です。ヨガなどの訓練で発現してくるようですがオーラが見えるといっても大したことではないのです。




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    この帽子を被ったダンサーの頭の周囲も青みがかったもので覆われています。光を放っているようにも見えると思います。丸い光の中に頭部があるという感じで昔から西洋の絵画でそういうものが表現されています。腰から下は照明が明るすぎて見づらいと思います。 これらの写真は昔のデジカメで撮ったものなのでもう一つですがあまり感度の良すぎるカメラには写りません。

    これらの写真でご自分のサイキック能力を試してみてください。動物などは日常的にこういうものを見ていると思います。オーラを見るには凝視することなく肉眼で見ながらもちょっと意識の焦点をずらしてみるような感覚(ぼんやりとした状態)がいいと思います。



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    これは有名なハワイアンバンドの皆様ですがステージの前に楽器や装置の調律をしているところです。本当は幕を下ろして観客からはこういうところは見えないようにするのですが、そこはローカルな会場、観客も気心が知れているので問題にはなりません。 この3名のハワイアンバンドは今年で3回目の小豆島公演ですがボーカル、ギター、ベースとどれを取っても超一流で聴いていると時間を忘れます。

    照明が暗いのでオーラが見やすいです。特に右側のギタリストの頭や全身の周囲が輝いています。真ん中の女性やピアノ、譜面台なども同じように白っぽいもので覆われているのがお分かりかと思います。オーラはバックの色を反映するのでその色を見て判断したりするのは同じ条件でないと難しいです。オーラは人間だけではなくすべての生き物や器具類にもあり、そのものが持つ磁気的エネルギーです。

    こういう場面で見えるオーラは殆どが肉体の発するエネルギーなので霊的エネルギー所以のオーラは簡単には見えないでしょう。相当に厳選された条件下でかなり霊的にレベルの高い人(サイキックなものを超えて)でなければ無理だと思います。その人のオーラを見てすべてがわかるというレベルの人間はこの地上世界にはまずいないだろうと思います。

    今日は無断で彼らの写真を載せてしまいましたがそこはご容赦願いたいと思います。



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    分かるということ

    2012.07.25 14:04|真理を求めて
    人々の理解能力は皆違い受け止め方も違う。ある出来事がある人には容易に理解できてもある人には理解できない。それがこの世の厄介なところであり、また様々な軋轢やこじれた問題を生む原因になっているのだろう。皆が同じレベルなら何も苦労することはなく、すぐに分かり合えるということになるのだろう。同じ地球上に住んでいても一人ひとりが違う精神世界に住んでいるのである。

    分かるという事は言葉で言えば簡単だがそう簡単ではない。本を読んでわかったと思っていてもそれは本当に分かっているという事にはならないのである。それが本当に理解できているかどうか試しの場面が人生のうちには何度も来る。その時本当に分かっていないものは脆くも崩れ去ってしまう。メッキは簡単に剥がれてしまうのである。

    本当に分かったら試しの場面は来ないだろう。試しの場面は本当に分かるまで何度も来るのだろうと思う。私が子供のころから両親や祖父母からよく聞かされた言葉がある。「これで少しは性根に入ったか」。痛い思いや苦い経験をして初めてわかるということである。思い知る、性懲りもなく、懲りない面々、等々と言う言葉が使われるがそれは物事を本当に理解するのは容易ではないことを表したものであろう。人間がこの世に生まれてくる大きな目的の一つは“迷いの坩堝”のような人間社会のなかで真理を見る目を養うためなのだろう。分かるまでは目が塞がれているということなのかもしれない。

    父から貰ったメッセージに「目を開くこと」というものがあったが正にその通りだろう。
    父からは“性根に入ったか”という言葉をよく聞かされたものだ。